第58話 幻の罪悪感
後半開始。試合時間の十五分が、そのまま僕に与えられたタイムリミット。長いようで短いような、運命のクォーター。だが、時間にそれほどの問題はなかった。だって、満身創痍のこの体では、もうそう長くは自由に動けそうにないから。
無理な運動を突然強いられた筋肉と骨とが僕に文句をつけるようにあちこち軋んで、長いブランクで持久力を根こそぎ奪われた心肺機能が曇った音で大合唱。変な耳鳴りまで聴こえてくる始末で、本当に無理なんてするものじゃないなと嘆息。
「戻ってくるんだなぁ、結局」
一度背を向けて、二度と振り向くことなんてないと思っていたのにもかかわらず、数奇な縁にがんじがらめにされて、また真剣勝負の場所に帰ってきた。思考の根幹は当時からなにひとつとして変わっていないというのに。
義務になった勝利に嫌気がさして、けれど勝たないことには居場所を守る術がなくて。――それが楽な方に逃れているだけだと気づきながら、愚かしくも結末を先延ばしにした日々。その延長戦の上に今日があるというのなら、僕はいよいよ満を持して、「さよなら」を言わねばなるまい。抱えた問題ごとと厄介ごとを払いのけ、気楽に明日を迎えるために。僕が僕であるために。
相手チームのボールから、試合が再び動き出す。緩慢なボール出しの動きの最中に味方の配置を把握して、相手の陣形も頭に入れる。やるべきことが決まっている以上、後はそれを成し遂げるための手順を考えるだけだ。
試合に勝てばいい、というわけじゃない。それだけだったら竜也に先ほどの再演をしてもらえば済む話だ。いくら初見殺し的な要素が大きい大立ち回りだったといえども、彼ならもう一度や二度くらいはさらりとやってのけるだろう。
ただ、僕が欲しているのはそういう展開ではなくて。
「竜也」
短い声かけで、僕の意図するところは伝達できたようだった。彼は右サイドに大きく展開してパスコースを限定し、ついでにジェスチャーによる指示まで出して、理想とした舞台の構築に力を貸してくれる。
「無理だったら言えよ香月ー!」
後ろから久留米の声。下手に応じると集中が緩んでしまいそうで、肘から先を持ち上げるだけで答える。大丈夫。ここで無理だって音を上げてしまえる単純な性格だったら、こんなに面倒なことにはなっていない。
僕がやる。やらなければいけない。やらせて欲しい。
意思の炎を瞳に灯らせ……ここでようやく、真正面に立っていたプレイヤーと視線を交錯させた。
「ずいぶん待たせたようで」
「ふん、ここまで来ておいて、欠場するものかと思ったぞ」
「いや、別にこの試合に限った話ではなく――」
意識が切れているのを期待して、あいさつ代わりにノールックでスティール。……だが、それは想定済みだったようで、巧みな足さばきでかわされた。
新浜創健。人にちょっかいをかけるだけの実力はきちんと彼の内にある。彼は余裕の表情を崩さず、それどころか僕を煽るかのようにボールを太ももで弾ませ始め――
「――ッ!」
ニュートラルからハイトップにギアチェンジする勢いで、保持したボールを一息にゴールまで運び出す構えを見せた。見事な緩急。対応には骨が折れる。
「ないない。せっかくだからもうちょい会話していけよ」
だから、骨を折ってやった。右に抜けるか左に抜けるかの賭けに勝ち、肝心要の一歩目を阻害するようにこちらの足を進路に置いておく。それだけで理想のムーブからは遠ざかり、一度加速フェーズに入った新浜の体がぴたりと静止した。
「ずいぶん余裕……だなっ!」
「余裕がないから話して時間稼ぎしようとしてるんだっての!」
攻防は続く。右へ左へと動く新浜の重心に合わせ、僕は自分の体を壁にして動きを阻害。予めパスコースはふさいであるために、彼は僕との一騎打ちに専念するほかない。
さすがに現役のフットワークだ。軽やかに、舞うように、ボールの在処をあちらへこちらへ。それに比べ、僕のディフェンスのなんと不格好なことか。そもそも昔から守りはそこまで得意じゃなかったと自己弁護してみても、なら仕方ないと擁護してくれる優しい第三者はこの場にいない。勝つか負けるか、食うか食われるかの二択しか、今この場には存在しない。
「…………シッ!」
新浜に、僕と長く取り合うつもりはないらしい。しつこかった時期が嘘のように歯切れよく、まるでこちらとの対話を拒否するように、シュートの体勢に移った。――当たり前だ。僕は今日一日の頑張りでは取り戻せない程度に、彼からの失望を買った。それがどういう意味を持つのか、今ならわかる。
「だーかーらぁ!」
シュート直前に彼が放った気合いを覆い隠すように、僕は言った。
軸足は右。わかっているとも。蹴りこむ足が左だというのも、勘づいている。やろうと思えばシュートコースに足を出してブロック可能。強がりではない。さすがにセンターライン近くからのミドルシュートにかかる溜めは大きく、それの妨害ができないほど落ちぶれたわけじゃない。
だが、敢えて動かない。
だからその代わり、その場に仁王立ちして、聞き取りやすい大きな声で。
「五年ぶりの再戦なんだ。もっとゆっくり楽しまないと」
動揺は、手に取るように。結果は、目に映ったままに。ボールは大きくスライスして、ポストにかすることもなくラインを割った。ホイッスルが鳴り、点々と転がるボールを脇で待機していた雑用係が追う。そうして生まれた空白の時間を存分に利用させてもらう。
「五年前の秋だ。僕があのクラブを去る直前のこと。当時、クラブの最悪な雰囲気に嫌気がさしていた僕は、それと同時にプライベートでも問題を抱えてピリピリしていた」
半ば追い立てられるように練習場に行って、ロクに会話もせずに機械的にメニューをこなす。その時点では既に、僕に元々あったはずの熱意の大半は失われていた。
そんな折、僕の前に一つの問題が降りかかったのだ。――隣家に住む快活が売りだったはずの女の子が、突如として部屋に閉じこもってしまった。両親ともロクに会話せず、当然ながら学校を休み、ほぼ毎日顔を合わせて言葉を交わしていた僕との縁すらも、ぷっつり断ち切れそうになっていた。
小学生の僕を襲ったのは、比類のない焦燥感だった。もちろん、大人が解決できない問題をどうにかできるほど賢くなんてない。……けれど、そこであっさり諦めて、明日からは他人として過ごせるかと言われればそれも違くて。ガキの浅知恵で何度も岩戸開きを敢行し、ほんの少し光明が見え出した頃に、彼は現れた。
「あの頃の記憶は思い出すだけで頭が痛くなるから無意識に記憶の底に沈めといたはずなんだけど……それでも、特に強烈なものに限っては時折浮かび上がってくる。たとえば、初対面の僕に向かって背番号を寄越せなんて滅茶苦茶な要求をしてくる新参者とか」
背番号には意味がある――というと、語弊になるだろうか。正確には、意味のある背番号が存在する、だ。これはサッカーというより野球の方が顕著な気もする。野球の神様ベーブルースが背負っていた3、黒人初のメジャーリーガーであるジャッキーロビンソンが背負っていた42などが該当する、それ単体で意味を持つような神聖な数字だ。
では、サッカーにおいて重要な番号とは? そう聞かれたときにぱっと僕の中に浮かんだのは、一般的にエースナンバーとされている10だった。そしてそれは、押し付けられるような形で僕のユニフォームに刻印されていた数字でもあった。
「シュート対決かドリブル対決かは忘れたけど、苛立っていたのをいいことにボッコボコにぶちのめしたのを覚えてる。大泣きしたそいつが、再戦を要求してきたことも」
なんでも、引っ越してきて間もない少年だったらしい。親の影響で幼いころからサッカーに親しみ、前に籍を置いていたチームでは実力でその番号をつけていたとかなんとか。おぼろげな記憶を頼りに補完しているからどこまでが正確な情報か断言はできないが、大筋ではまちがっていないと思う。
だからおそらく、新天地でも自分がもっともその番号にふさわしいと思っていたのだろう。もしくは、そういう体当たり的な方法でしかコミュニケーションが取れなかったのか。まあどちらにせよ、結果は惨敗。井の中の蛙は、そこで大海を知ったわけだ。その大海というのが僕を喩えた言葉だと思うと怖気が走るが、事実である以上はそう評するしかない。
「……ただ、再戦は果たされなかった」
ここでようやく、新浜が口を開く。ああ、その通りだ。だって――
「まあ、僕がその日を境に退部してるからな。それっきり顔を合わせてないんだから、忘れていても無理はない……なんて、その約束を心待ちにしていた方からすれば、たまったもんじゃないんだろうが」
縁をつないでいきたい相手とは、積極的に実現不可能なくらいたくさんの約束を結んでしまうのが望ましいと僕は芦屋に言った。……だがしかし、そうではない相手と軽率にかわしたなんてことない口約束が、大きな呪いに転じることもある。それは、新浜を見ていてよくわかった。
勝ち逃げに映ったろうか。――それとも自分の無茶な要求に呆れ、僕がユニフォームを脱いだと思ったのだろうか。それは彼のみぞ知ることで、僕の関知できる領域ではない。だがもし、もしも後者だった場合は、一体どれほどの負担を新浜少年に強いたことだろうか。それが心の内で膨れて、恨みつらみや過剰な執着心に変わってもおかしくはない。いくら立て込んでいて余裕がなかったとはいえ、いくらまだまだ想像力に乏しい子どもだったからとはいえ、あまりに浅慮が過ぎたと思う。だから初めに、彼には伝えておかねばならない。
「君には感謝してるんだ。あのあとクラブがどうなったかは調べてないんだけど、僕は別に、誰から文句を言われたわけでもなかった。つまり、僕の穴を埋めた誰かがいて――そして当時の状況から鑑みて、それは君以外にあり得ない」
一人が暴走する形で本来のチームの格に見合わない立ち位置にいた桜井FCから、ワンマンの僕が抜ける。これが意味するところはチームの崩壊だ。これまで負けなかったところで負けて、これまで勝てたところで勝てなくなる。そのストレスがどれほどのものか推し量るのは容易で、異様に入れ込んでいた保護者がその怒りの矛先を向けるのは僕が捨てたチームメイト。――もしそうなっていたら、僕は数えきれないほどの恨みを買うことになっていたと思う。
しかし、そうはならなかった。僕はこの数年、誰からの悪意も受けた記憶がない。
新浜創建は、僕が自分勝手であけた穴を、見事に塞いでみせたのだ。
「……一つ、聞かせて欲しいことがある」
「なんでもどうぞ」
「香月蓮。……お前はあれだけの才能を持っていて、どうして」
「…………」
瞬間、脳裏に甦る鮮やかな記憶。安くない月謝を払って、たまの休みに遠征の送迎当番を受け持って、それに文句の一つも言わず僕に付き合ってくれた両親。
そんな彼らに僕はこう言って、退部したいと伝えたのだ。
「順番があるんだ」
どうにか再び話せるようになったすずは、しかしとても不安定な状態で。誰かが傍についていてあげないことには、うっかり死んでしまうんじゃないかとすら思えて。けれど彼女の両親も定職のある身で、心身ともに落ち込んでしまったすずを養っていくためにも、ずっと付きっ切りではいられなくて。
だから、僕しかいなかったんだ。
「あの頃、僕が一番に優先すべきはサッカーじゃなかった。それだけ」
でも。……でも。
この発言が、純度百パーセントの真意かと問われたら、きっとそうではないのだ。
だって、僕はあのクラブに居心地の悪さを感じ始めていて。怪我をしてでも抜け出せたらどんなに幸せかと夢想までする始末で。
だから。僕は。
花柳涼音を、隠れ蓑に利用したのだ。
口ではもっともらしいきれいごとを並び立て、息子の覚悟を両親が否定できようわけもないのを織り込んで。
そんな小賢しい真似でまんまと望む結果を手に入れ、今日まで何食わぬ顔でのうのうと彼女の隣に居座り続けた。
最低だと思う。終わっていると思う。――そしてその結果、すずは自分のせいで僕がサッカーを捨てたって勘違いまでする始末だ。そんな罪悪感、出処すら存在しないと言うのに。
だから僕は、今日この瞬間をもって、彼女が背負った不要な荷物のいくつかを取り除かねばならないのだ。
それが義務で――それが責務だ。
「そうか……。なら、なおさら負けられない」
新浜は一字一字噛みしめるように呟いて、それから僕の瞳をキッと睨みつけた。
「こちらの一番は、昔も今も、『これ』一筋なのだから」
「うん」
つま先で地面を叩く新浜に、僕は一度大きく頷いた。彼の言い分はもっともで、疑いようがなくて、健全で、どこまでも正しい。
一方で。
「でも、今日も僕が勝つよ。……さすがに五年前のようにはいかないだろうけど」
僕の主張はまちがっていて、正しさの欠片すらなくて、醜くて、気持ち悪い。正当性も整合性もいくら探そうが見つからない。
それでも、それでも……それでも、だ。
「ここで君に劣ったら、自分のせいだって気に病む奴がいるんだ」
それだけは看過できない。どれだけ正しくなくたって、僕の五年は無価値じゃない。その無理筋の主張を通すためには、ここで勝って、己の価値を再び示すしかない。
「「再戦だ」」
二人の声が重なって――その瞬間に、五年越しのリベンジマッチが始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます