第57話 建前と本音

 ボールが、何分間もずっと自陣に留まり続けている。サッカーというスポーツにおいて、これは健全な状態ではない。支配率は概算で向こう七割こちら三割、しかも触れたそばから奪い取られるせいで、体感ではもっと低い。両者の間に致命的な実力差があるのは明らかで、だからこそ、未だ無失点という状況は奇跡と言えた。

 自分が苛立っている。そのことに気づいたのは、右手が無意識に痙攣しかけている太ももを殴打していたからだった。こんなことをしていても行儀が悪いだけだと握り拳を膝上に置くが、そうしたらそうしたで貧乏ゆすりが止まらない。こんなに堪え性のない人間だっただろうか、僕は。もう少し諦観して、あと少し達観して、日々をなあなあに消化することを得意としていたのではなかったか。


「……今更、君の気持ちが理解できたかもしれない」

「うん?」

「動きたいのに動けないもどかしさ。……普通に狂いそうだ」

「いや、さすがに狂いはしなかったけど」


 特設のベンチに竜也と並んで腰かけて、試合の行方を見守っていた。僕のクラスは防戦一方で、薄っぺらな氷の上をやっと歩くような危うさで、ぎりぎり失点を回避し続けている。

 志願してベンチスタートしたわけではなかった。強行出場を久留米に咎められて、いやいやここにいさせられているのだ。彼の正当な発言に従わず、限界までゴネたせいで試合開始時間がわずかに遅れた。だが、結果オーライだと笑ってもいられない。僕が出ないのならと竜也も控えに甘んじているからだ。


「たかが球技大会で体壊してどうすんだ、かぁ。確かに久留米の言う通りだね。いくらなんでも今日の香月は不気味すぎる」

「たかが……か」


 そう言って括った割に、久留米のプレーは真剣そのもの。必死にボールを追いかけて、必死に失点を防いでいる。その光景から、僕は彼に不本意なことを言わせてしまったと悟った。暴走防止の材料に、詭弁を使わせてしまった。後で謝らなくてはいけないなと反省しながら……それでも、自分への不満と苛立ちは消えない。


「球技大会の勝敗、そんなに大事?」

「いや、どうでもいい。……でも、それはあくまで、球技大会っていうイベントに対しての思い入れであって」


 点数的に、自クラスの総合優勝がないのは決定事項。そもそも一位になったところで手に入るものはちょっとした名誉が良いところ。なんならここでどんな結果を残そうが、総合順位に変動すらないらしい。

 だから別に、球技大会はどうでもよかった。


 しかしながら。


「けど、ことこのサッカーっていう競技に関しては、どうでもいいとは思えない」


 長く携わったスポーツだから。得意分野だから。その他にも理由は色々と用意できる。……しかし、それらは全て建前だ。

 

「一度逃げたから。せめてどこかで、落とし前をつけなくちゃいけない気がしていて」


 他人にかこつけて、自分で向き合わなくてはならない問題から目を背けた。逃避は肯定していても、それはあくまで自己完結する場合だけ。そこに誰かを巻き込んでしまった以上、僕はこの競技とまだ完全に縁を切れていないのだ。

 それに。


「他にもある。……なんていうか、言われっぱなしが癪で」


 氏家が竜也に向けて放ったいくつかの言葉を、せめて僕だけは否定しなければいけない。だって、竜也は僕のように背を向けて逃げてはいないのだから。最後の最後まで問題と向き合って、どうにかしようと悩みぬいて、その上で結論を出した。あの一夏の最後の足掻き。そこに関わった僕がどんなスタンスを取るべきかなんて、言われずとも理解している。


「だから、僕はここで意地を張らなきゃいけないんだよ」


 僕の努力で報われる誰かがいる。……ただ、これだけでは動く理由にはイマイチ足らない。僕は慈善活動家じゃないし、基本は面倒くさがりだ。……だから、その『誰か』という空欄に収まる名前が、なにより肝要だった。

 今回は、二名。

 及川竜也と、花柳涼音。

 深く関わって、そして、これからもずっと関わっていきたいと思っている、二名。

 身を切るだけの価値を見出せる、二名。


「強情って、香月にとっては誉め言葉になるのかな?」

「時と場合による。今回はギリ誉め言葉かもしれん」

「そっか。……なら、試合終了まで評価はお預けだ」


 言って、竜也は立ち上がる。そのまま何度か膝を曲げ伸ばして、腿上げをして。

 その明らかにウォーミングアップ然とした動きへと目を奪われている間に、試合の均衡が崩れた。


 周囲にずっと漂っていた喧騒が大きくなる。男子の野太い叫びと女子の黄色い歓声とが不協和音を奏でながら拡散して、その空気に圧倒されたかのように、僕のチームのキーパーが、がっくり頭を垂れた。

 まだ、ゴールネットは揺れている。シュートシーンは見逃したが、誰が決めたか探すのは簡単だった。人差し指を天高く掲げ、周りのチームメイトからもみくちゃにされている短髪の男子。なぜだか視線をこちらに注いでいる彼の名を、僕はもう忘れない。


「ご指名は俺じゃないみたいだけど」


 竜也が一度、大きな声で久留米を呼んだ。それで意図を察してか、彼は手早く選手交代の段取りをつける。


「後からゆっくり来なよ。先に行って待ってるから」


 竜也は振り返らない。ただ力強く頼もしい言葉だけを残して、石灰で引かれた白線を越え、ピッチに立つ。

 僕は返す言葉に迷って、頷くことしかできなかった。……そんな情けない反応で、果たして彼は満足してくれただろうか。僕の自分勝手に巻き込まれて、いやいや立ち上がっただけではないのだろうか。



 ――なんて、そんな程度の低い葛藤は、そう長く続かなかった。


 

 歓声が上がる。先ほどよりも、ずっと大きな歓声が。何度も観てきた光景だから、どういった理屈でそれが発生するかを、僕はよく知っている。

 

 センターサークルにボールが戻され、ホイッスルが鳴る。――そこから、ほんの一瞬。一度瞬きして、次にまた目を閉じるときには、あらゆる工程は終了済み。


 一閃。


 相手方の虚をつき、敵陣深く切り込んで、呼吸を合わせる隙すら与えずに、そのゴールへ理不尽にボールを叩きこむ。崩れたはずの均衡はほんの数秒で元へと戻って、それを成した立役者は、涼しい顔でチームメイトとハイタッチを交わしている。


「これだから天才は……!」


 半分の呆れともう半分の興奮、しかし僕の視線は既にピッチから離れていた。……今の瞬間を絶対に目に納めなければいけない人物が、たった一人だけいるから。

 とてもじゃないけれどブランクありではできない今の動きを見て、実は竜也がまだサッカーに未練たらたらであることと、ずっと影での努力を続けていることに気づくはずの人間が、この学校にはいるから。

 氏家繭香には、それを知る義務があるから。


「…………どこに」


 端から端まで視線を走査させ、彼女の姿を探す。芦屋が僕の無茶ぶりに応えてくれていると信じて探す。


「どこにいる…………?」


 不思議と、彼女が失敗しているという仮定は浮かばなかった。勝手な期待で勝手な信頼。寄せられても邪魔だろうと思うけれど、芦屋ならなんとかしてしまうのではないかと思っていた。

 

 ――だから。


 グラウンドの入り口で、控えめなピースサインを僕に向かって見せている彼女を発見しても、それほど大きな意外性はなくて。

 

 その仕草が、氏家がどこかで今の様子をはっきり捉えた証左だと理解するにも、時間はかからなくて。


「……マジで神か天使かって感じだ」


 ありがとうは後からいくらでも言う。無茶言って悪かったと何度でも謝り倒す。……だが今は。


「絶対無駄にしないから」


 こちらも、同様のピースサインで応えた。距離はあるものの、芦屋の表情が綻んだのを感じる。その笑顔を向けてもらいたい男子がこの学校にどれだけいるかと思うと背筋が凍るが、今回に限っては前祝いだと思って受け取ろう。


 ここで前半終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。クラスメイトが続々とベンチへと帰ってきて、各々水分補給や休憩に努めている。


「久留米」

「出せって言うなら聞かないぞ」

「聞いてもらえないなら君のこと張り倒してでも一枠開けるだけだ」

「……なあ香月、お前、どうしてそんなに頑張ってるんだ?」

「決まってる」


 胸を張って言った。


「女の前でカッコつけたいからだよ」


 これに限っては、嘘ではなかった。

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