第56話 順番

 はかりごとというのは往々にして上手くいかないもので、そして悪いことは重なるものだ。ざっくりどんぶり勘定で練った計画がほとんど破綻したことを直感してしまったのが良くなかったのか、疲労困憊の体をぎりぎりのところで踏みとどまらせていた脳内麻薬の分泌がぴたっと止まる感覚があった。途端、足腰は鉛もかくやという重さを伝えてきて、瞬きすら億劫に感じられるほど身体機能が鈍化。まずいまずいと抗おうとすること自体がまずくて、一人では立ち上がることも満足にできない。全身の汗腺が開いて最悪な冷ややかさに溺れかけ、しかしどうにか踏みとどまって大きく息を吸う。


「サブプラン考えなかったどこぞの馬鹿を呪うしかないな……」


 芦屋にはさも打開策があるような口ぶりで語ったが、実際のところそんな便利なものはない。全部うまくいく予定で考えていたものだから、一つの歯車の狂いが致命傷なのだ。この程度の浅はかさで人事を尽くした気になっていた馬鹿もいて、いよいよ救いようがなくなってきた。


 正直なところ、芦屋への頼みは保険でしかなかった。本来そこまでせずとも整うだろう条件を、さらに万全を期した状態にしてやろうという思いが第一にあったのだが、確かに今周囲を見回しても、たずね人の影も形もありやしない。


「それすら確認してないとか、間抜けにも程があるぞ……」


 閉会式と表彰式がグラウンドで行われること、それからサッカー部門の決勝が競技日程的に最後になること、これら二つの事情が相まって、あたりの生徒数は時間を追うごとに増している。一年対一年という盛り上がりに欠けるカードでこそあるものの、腐っても大トリ。今日一番注目を浴びる舞台であることは言うまでもなく、さらに加えるのなら、自クラスの応援くらいは当たり前にするものだと高をくくっていた。

 目を凝らしてそこらじゅうを確認しても、やはり目当ての人物は見つからない。いよいよここにいないという説が濃厚になってきて、それを先ほどの芦屋の表情が嫌でも裏付けてきた。


「涼音ちゃんなら向こうにいたよ」


 上背があるから遠くても目立つねと横の竜也が言う。すずの前で言ったら即地雷案件なのだが、残念なことに今探しているのはあいつじゃない。……しかし、これは参った。今の状況は、クラスで浮いているすずでさえ集まることを考えるレベルということだ。逆説的に、今ここにいない人間はそれに足るだけの理由を抱えているとも。なんとなくとか気分的にとか、そういったふわふわした考えではなくて、なにか確固たる意志でもってこの場にいるのを拒否していると。


 どうする、どうする……と思考の迷路に迷い込んでいる間にも、たびたびゴールネットが揺れ、歓声が起こった。決まってゴール前には新浜が立っていて、彼が僕の挑発に律義にも応えてくれているのがわかる。試合時間はあとわずか、取るに足らない休憩を挟んでからの決勝まで、おそらくは二十分もない。その短い猶予で、僕になにができるだろうか。


「香月、涼音ちゃん」

「ああ悪い、探してるのはすずじゃなくて――」

「いや、違う違う。涼音ちゃん、そこまで来てるよ」

「…………?」


 遠くに合わせていたピントを近距離に。確かに歩いてすぐのところにすずは立っていて、しかし人の多さに尻込みしたのか、人口の密集地帯から一歩二歩引いてちらちらと僕らの方を窺っている。様子から、ただの覗き見というわけでもなさそうだ。向こうから来いなんて酷なことは言えないので尻の砂を拭いながら立ち上がって、攣りそうな脚をぴんと伸ばした不細工な歩法で近寄る。

 

「クラスの応援はいいのか?」

「あ、いや、そのために来たわけじゃなくて……」


 人目につく場所での会話は、いかに相手が僕といえどもなかなかすんなりいかない。すずは頼りなさげにあちこち視線をさまよわせ、それからようやく、さっきからずっとお守りみたいに握りしめているスマートフォンをぐいっと僕に押し付けた。


「……どした?」

「電話、取り次いでって言われて」


 一瞬、身内に不幸でもあったのかと体が強張る。しかし本当にそんなことが起こったら学校の固定電話にかけてくるはずで、じゃあ誰だよと身構えながらスピーカー部を耳に近付けた。


「もしもし?」

『……香月くん?』


 僕の問いかけに対する返答に、若干だがラグがあった。この前通話したからわかる本当に些細な差異だが、吐息にわずかな疲労の色が滲んでいる。

 そういえば、すずと芦屋は連絡先を交換したようなことを言っていた。だとしたら、すずのスマホから彼女の声が聴こえてくる理由にも納得がいく。


『良かった繋がって……。花柳さんに後でお礼言わないと』

「……悪い、人に頼みごとした身でスマホ教室だ」

『競技者は仕方ないわよ……。ところで、香月くんがこうして電話に出ている以上、決勝戦はまだ始まっていないってことでいいのよね?』

「ああ、うん。なんなら準決がまだ終わり切ってないくらい」


 すずに「なんの話?」と視線で問われたので、内緒の話だと人差し指を一本鼻先に立てる。事情を説明するにしても、それは優先度的に後回しだろう。


『……それで、まずは謝罪。頼まれてたこと、たぶん上手くいかないと思う』

「ああいや、僕が勝手に言ったことだし。失敗しようが無視しようが、君に文句言えるような身分じゃない」

『でも、私なら失敗も無視もしないだろうという信頼のもとでのお願いよね?』

「……そこを突かれるとどうにも」


 約束ごとを違えるような相手ではないのをいいことに、一方的に言い逃げした節がある。責任感のある人間は総じて罪悪感も強いから、できませんでしたハイおしまいなんてできないことも知っていて。いわば人の良心につけこんだ形だが、そういうのが割と日常茶飯事なので意識せず罪科を積み重ねてしまう。


『改めて聞くんだけど……やはり、彼女がいないと困る?』

「……非常に」

『……一つ、妥協させて』


 電話越しに、ふーっと息を吐く音が漏れ聞こえてきた。気合いでも入れ直したのか、直後の声はいつもの芦屋みやびのものだった。


『フルタイムでなくても良い……?』

「……いや、無理を通してもらうほどのことじゃ」

『もちろん。こちらだって打算込みの善意の押し売りだってことをお忘れなく。もらうものは後できちんともらうから、そのつもりで』

「……お手柔らかに」

『どうでしょう』


 言い残して、通話が終わる。僕が頼みを通しやすくする大義名分をくれるあたり、本当に聡明な人間なのだなと感じ入るばかりだ。……だからといって滅私奉公というわけではないだろうから、後々に訪れる代価の請求が恐ろしくはあるが。

 とはいえ、展開に上方修正だ。もしかするとまだ、理想図に近い結末を手繰り寄せるチャンスがあるやもしれない。……結局のところ人任せの人頼みで、自分の情けないところを凝縮した顛末は避けられなさそうだけれど。


「……蓮、結局なんの話?」

「男たるもの意地があるよなって話。詳しくは家帰ってから」


 液晶部分を拭いながらすずにスマホを返して、誤魔化しとも宥めすかしとも言えない脚色込みの美辞麗句を並べ立て、いつものように笑ってみせる。ガクガク笑う膝を一発叩いて黙らせ、至極平然と、普段通りに接する。


「決勝、まあまあ頑張るから。自分のクラスの応援ついでに、僕の勇姿だか無様だかも納めといてくれ」

「……ぁ、あのさ」

「ん?」

「……蓮は覚えてるかどうか知らないけど、昔、なんか言ってたじゃん。……順番がどうとか」

「…………じゃあ、それ込みで」

「へ?」


 その先は取りあわず、待ちぼうけの竜也のもとへ戻る。「いいの、涼音ちゃん? まだなにか話し足りなさそうだけど」「いや、良い。……こうなるの見えてるから、話したくなかったんだ」


 順番。順番だ。僕が過去、卑怯にも持ち出した概念。未だに残る後悔すらも、今日払拭してしまうつもりでいたのに。


「忘れといてくれれば最高だったものを……」


 情けない呟きは、オーディエンスの歓声に溶けた。どうやら、新浜がまたシュートを決めたらしかった。




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