第48話 蒸し返しますか?

 その場の勢いに任せて良いことなんかなにもないなと、とぼとぼ歩きながら自己嫌悪。バスを待っても良かったが、今はどうしてか風に吹き晒されたくてそれを諦めた。氏家を直情的と評したが、そう言う自分の方がよっぽどだ。ただでさえ少ない手札を自分から捨てにかかるような真似に、頭が痛くなってくる。

 

「あー……」


 思考を覆う靄が晴れない。新浜から向けられた失意のまなざしと、先ほどの竜也たちの会話が頭の中でループする。どうしても自分が悪いところへ向かっているようにしか思えず、後ろから迫ってくる疑念から逃れるように、白昼の歩道を駆け出した。

 家までは遠い。なのに、ペースは考えない。がむしゃらに、向こう見ずに、途中途中に向けられた通行人からの視線も無視して、腕と脚を全力で振る。知らないうちに、叫んでいたのかもしれない。呼吸の乱れと喉の痛みが同時に叩きつけられる頃、僕はふらついた足取りで、自宅の玄関ドアを開けた。額からは汗が滴り、シャツはぐっしょりと濡れて色を変えている。――着替えなくては。酸欠の脳が導いた結論はそれだった。このまま倒れてしまっても構わないが、そうしたら十中八九体調を崩す。自分が風邪を引くと悲しい顔をする人間に思い当たりがあって、それを積極的に拝みたいとは思わない。

 まだまだ荒れた息のまま、自室の引き戸に手をかける。干からびた喉が咳を呼び込んで、最初は水分補給からだったかと順番の誤りを嘆いた。


「…………あっ」


 別に、特別なことではなかった。彼女がここにいるのは、当たり前の日常に過ぎない。この部屋の使用権は半ば譲り渡す形になっていたし、自分自身、それに文句はない。好きに使えと言ってすらいる。

 ただ、今この瞬間に眼前へ広がった光景に対しては、どうしても思うところがあって。――そして僕以上に思うところがあるからこそ、すずはバツが悪そうに、普段はクローゼットの奥深くに封印してあるはずのそれを、自分の背中に隠したのだ。悪事がバレてしまったようなかすれ声を出して、目を伏せながら。


「……お、おかえり。言ってたよりだいぶ遅かったんじゃない?」

「色々あってな。……それ、ちょっと欲しい」

「いいけど……って、なんでそんなに汗びっしょりなの?!」


 答えるより、喉を潤す方が優先された。僕はすずが飲みかけにしていたペットボトルの清涼飲料水をあおって、「……はぁ」と大きく息を吐く。どうやら軽い脱水症状に陥っていたようで、水を飲むことでかえって体調が下向き始めた。正確には、つい数秒前までは己の体調不良を認知する余力すらなかったのだと言える。


「ねぇ、顔色……」

 

 不安そうな表情で近寄ってきた彼女を片手で制止。血の気が引いていく感覚が自分でもはっきりわかるので、それが顔にも出ているのだと思う。まあ、それも大きな問題ではない。水分は取ったし、小一時間休めば落ち着く。


「心配無用。久々の運動で、加減をミスっただけだから……。それに今、かなり汗臭いだろうし」

「どうでもいいよそんなの」


 すずは背中に保持していた物体を僕の死角に置いて、収納からタオルと替えのシャツを矢継ぎ早に取り出してくれた。……そういえば、水もタオルもバッグに入っていたのだとここで思考が正常化するが、厚意をわざわざ無碍にする気も起きず、ありがたく受け取――


「っていうか、それだったらシャワー浴びた方が絶対いい」


 方向転換。受け渡しの直前で手を引っ込め、追加でパンツとジャージをピックアップし、すずは僕の背中をぐいぐい押す。プライベートのプの字もないなと再確認しつつ、へろへろの体を風呂場まで連行された。


「シャワーくらい一人で浴びれるって……」

「めまい起こして倒れるかもしれないでしょ」

「おかん……」

「おかんじゃない」


 額にチョップを浴びたが、驚くほどに力がこもっていない。気を遣わせてしまっているようで、ならばさっさと終わらせるに限ると服を脱ぎ出した。


「ちょっとぉ!」

「脱ぐのわかってんだからそっぽ向いとけよ……」

「普通は前置きするじゃん!」


 いや、普段からしてないけど……。平然と部屋の隅っこで着替えてるんだけど……。すずはいきなりジーパンに手をかけた僕へ過剰反応を見せ、要求通りに背を向けた。女子の脳みそはよくわからない。

 手早く脱ぎ終え、浴室へ。すずはもしもに備えて本当にすぐそばで待機しているようで、曇りガラス越しに影が見えた。僕はもう高校生で、基本は手がかからない年頃のはずなのだが。

 熱いシャワーは、疲れた体にこの上なく染みわたる。シャンプーで適当に汗を流して、冷水に切り替えて火照りを減衰させてから、「出たいのですが」と監視員へ伺いを立てた。影は頷く素振りを見せると、スー……っと霊のようにその場から去った。


「なんだこれ……なんなんだこれ……」


 疑問には誰も答えてくれない。仕方ないからそのまま着替えて、タオルで髪を拭いながら脱衣所を出た。そこに待ち構えていたすずからコップ一杯に注がれた麦茶を手渡され、ありがたく一息で飲み干す。


「生き返った気がする……」

「うん、顔色戻ったね」


 空のコップを僕からひったくり、それをシンクに横たえるすず。どうせならさっさと洗ってしまおうと踏み出した矢先――彼女が懸念した通り、僕の体は少々強めのめまいに見舞われて。


「ほら、言ったじゃん」


 支えを失ってふらつく体が、すずによって抱き留められた。ありがたいやら恥ずかしいやらで、頬に朱が差していく感覚がある。


「逆だよこれ。絶対立ち位置が反対だって」


 照れ隠しで言うも、「たまにはそういう日があってもいいよ」と簡単に捌かれて、なんだか釈然としないまま、部屋に戻った。すずの手には洗面所のドライヤーが握られていて、これで乾かせという意味だと察し、受け取ろうと手を伸ばす。


「座る」

「えぇ……」

「いいから、座る」


 ベッドを指さされ、剣幕に圧されるまま腰を下ろした。すずは手近なコンセントにプラグを差し込み、妙に上機嫌で僕の背中を取る。ジェットコースターみたいなテンションだ。帰ってきてすぐは、もっと酷い表情をしていたのに。


「逆なんだよなぁ……」


 片手で髪の毛をわしゃわしゃやられながら、もう片手ではドライヤーを巧みに操って水滴を飛ばす。僕は不思議な感覚に目を瞑って、まぶたの内側で美容院を想起していた。施術者が極めて近しい人間であることを除けば、ほぼ同じシチュエーションだ。


「うわー、なんかめっちゃ変な感じする」

「痒いところはございませんか?」

「それ言ったら完全に美容院だろ」

「ノリが悪い」

「実際問題、遠慮しちゃって言うに言えないことの方が多い」

「そこまで忠実にディテールを組み上げられても困るけど……よし」


 短髪なのもあって、乾かすのにそこまで手間はかからなかった。自分の頭をぽんぽん触りながら「ご苦労」と労り、そのまま天井を見上げる。あまりに献身的すぎるすずの態度には多少戸惑ったが、困るだけで害も問題もない。


「話題逸らし……ではないか。お前、そこまで器用じゃないもんな」

「普段なかなか見せない蓮の弱みを、しっかり握っておこうと思って」

「計算尽くってわけかい」


 なんて、それが方便であることは、僕が一番よくわかっているけれど。彼女の前でだけは意識して泰然自若でいようと努めているのだが、それを見透かされているらしくて歯切れが悪い。もしかすると、僕は猛烈にカッコ悪い男なのかもしれない。

 まあ、それでもよかった。どこまで行っても個人の意識問題。誰にどう思われるかよりも、僕がそれをどう思うかがなにより肝要。そう断じて、肩の力を抜き――


「なあ、涼音」


 顔が見えていない状況を生かして、ずいぶん久々に愛称以外で彼女を呼んだ。


「なんでアレ引っ張り出してたか、聞いてもいいか?」


 指を差す、その先には。


 ついさきほどまで彼女が見つめていて、そして慌てて隠そうとした、正五角形を継ぎ接いだ球体が転がっていて。


「サッカーボール。まだこの部屋にあるの、知ってたんだな」


 後ろから、ごくりと喉が鳴る。――この話題を取り上げるのは、長い僕らの付き合いの中でも、初めてのことかもしれなかった。

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