第49話 蒸し返しました
サッカーをしていた時期があった。もっとも、やっていた期間より辞めてからの期間の方が長くなってしまったので、ずいぶんと昔のことのように感じられるのだが。
別に、サッカーに特別な思い入れがあって始めたわけではない。ただなんとなくスポーツの一つも経験してみるかと思い立って、大半の少年たちがするように野球かサッカーかで天秤にかけ、練習場が近いという理由で消去法的にボールを蹴る方を選んだ。小学一年生の夏ごろ、すずともまだそこまで親交がなかった時期だ。練習は週に二回。水曜の夜と、土曜の朝から昼過ぎにかけて。日曜に試合が組まれるときは土日が両潰れになるから、その時分からインドア感情全開だった僕は大いに嘆いたものだ。
ただ、サッカー自体は楽しかった。コーチも監督も厳しい人ではなかったし、クラブの雰囲気も良かったから。下手くそな初期にも試合に少しだけ出してもらえたし、今考えたらモチベーション管理に優れた人たちだったのだろう。体の成長とともに技術と勝利が追い付いてくる感覚も、なかなかどうして悪いものではなかった。僕はあっという間にのめりこみ、練習のない日も公園にボールを持ち込んでリフティングをしてみたりして、気づけば四年が過ぎていた。そしてその年、小学五年の秋口に、僕はユニフォームを脱いだ。
待てよと思われるかもしれない。因果関係がおかしいと訝しがられるかもしれない。けれど僕は確かな意思を持ってクラブを辞め、それからしばらくはボールに触れることさえしなかった。
その、ずっと昔に封印したはずのボールが、今目の前に転がっている。これは一体どういうことか。
「……蓮、今日はなにしに出かけるって言ってたっけ」
いつもとは違う重々しい語り口で、すずは言った。シャツの裾が引っ張られていて、首のあたりが詰まる。僕はなんとも言えない居たたまれなさに何度も脚を組み替えて、あーとかえーとかどう切り出せばいいかわからない間の場つなぎをする。
「……駅の方でなんかのイベントやってるらしいから、ちょっと冷やかしてこようと」
球技大会の練習があるのだとは伝えていなかった。それどころか、僕の参加競技がサッカーである旨すらまだ教えていない。――それに足踏みしてしまう理由が、僕らの間にはあるから。
「芦屋さんから聞いた。クラスの男子が、土曜に大会前の練習するって。蓮はここのところずっとそわそわしてたし、わたしに隠してこっそり行ってたんでしょ?」
「自分の隠匿能力の低さに泣けてくるな。……ってか、僕の知らないところでこっそりホットライン構築してたのかお前ら」
「それは向こうから仕方なく……」
いや、僕としては嬉しい話だから問題はないのだが。こいつのほぼ白紙みたいな連絡先一覧が新たに賑わったとなれば、本来ならもう少し派手に祝ってやっていたところを。
「……なんで隠すのよ。いいじゃん、言えば」
「言ったらお前が曇るだろうが。実際問題、さっきめちゃくちゃ思い詰めた顔してたろ」
「あ、あれはちょっと考えごとしてただけで……」
「それが問題だって言ってるんだ」
乾かしたての頭をがしがし掻いて、なにを話すべきかとあれこれ悩んで。僕は惨めったらしく、言い訳を始めることに決めた。
「僕がサッカー辞めたのと、お前の体調がおかしくなっちまったのはそれぞれ別個の話であって、勝手に責任感じられてもこっちが困るんだよ」
すずの対人恐怖症は、生まれ持ってのものではない。ある日を境にそうなってしまったというだけであって、本来はもう少し活発な女の子だった。僕のサッカー練習に付き合ってくれたし、毎週のピアノ教室に楽しそうに通っていたし、友達もちゃんといた。――それが全て狂ってしまったのが、僕がクラブと決別した数か月前だったというだけの話。
「本来まったく相関のないところに、お前が一人で類似点を見出してるんだ。僕があそこを出たのは、いつの間にか転換されていた方針についていけなくなったから。それ以上でも以下でもない」
嘘はついていなかった。元来根性に欠ける僕は、かつては居心地よい場所だったクラブが時間をかけて変質していることに薄々気づいていて、そしてそれ以上の変化は受け入れられなくなりそうだという理由で逃げ出した。もちろんチームメイトにもコーチにも監督にも慰留されたけれど、「ここはもう一番じゃなくなったから」と言って振り切った。
その後、クラブがどうなったかの情報は意図的に仕入れないようにしてきた。幸運にも同級生に同じクラブに在籍している奴はいなかったから、蒸し返される機会もなく、僕は進学を果たした。
「……だって、おかしいじゃん。あんなに楽しそうだったのに、『辞めた』なんてけろっと言ってさ。それっきりサッカーの話はしないし、わたしに気を遣ってることも、丸わかりで……」
「やめろやめろやめろ。僕の気遣いが下手くそだと思い知らされて苦しくなってきた。……くっそ、もっとスマートにやってきたつもりが」
こめかみのあたりをつねりながら強烈な羞恥心に耐える。ここまで上手いことのらりくらりこなしてきた気でいて、しかし外から見ればそんなことはなかったらしい。とんだピエロもいたものだと自嘲して、ずっと裾を引っ張りっぱなしのすずの手の甲を、僕の手の甲でぽんぽん叩く。
「いや、言わなかった僕が悪いんだけどさ。……でも、お前が原因じゃ――」
「本当に、一ミリもそうじゃないって言える?」
「……言えるよ。誓ってやっても構わない」
「…………ん」
今のは、明確に嘘だった。どうしても必要なときにだけ限って、自然体で大ボラをふけてしまう自分の度量にびっくりだ。
だって、仕方ないだろう。あのときは、あのときだけは、僕がなんとかしてやらないとダメだって、本気で思ってしまったんだから。
僕がなんとかしないと、冗談抜きですずが枯れて萎れてしまうって、思ってしまったんだから。
「良くも悪くも、人が他人の人生に及ぼせる影響なんて高が知れてる。それが僕らくらいのガキならなおさらだ。……まあ、つまるところ、お前がなにをどうしようと僕に大きな変化はないってこと。思い上がるな」
「一言余計~~~!!!」
そういえば、背後を取られているのだった。格闘技において背中を見せるのは敗北そのものであり、圧倒的不利位置の僕は、抵抗かなわず両耳をぐいぐい思い切り引っ張られる。裸締めをかけてこなかったのがせめてもの温情と察して、適当に「痛い痛い痛い」とおおげさに訴えてみせた。……いや、痛いのはマジだったけど。
「……蓮はさぁ」
一通り鬱憤を晴らし終えたのか、すずはそのまま僕にしなだれかかってきて、耳元でぽしょぽしょ呟く。くすぐったいから勘弁してもらいたいが、前述の通り不利なポジショニングなため、振りほどくにふりほどけない。
「他の人のこと、高く見積もり過ぎなんだよ」
「そうでもないと思うけど」
「それ、絶対まちがってるから。子どもだろうとなんだろうと、変えるときは変えるし、変わるときは変わるよ」
「……どうだろうな」
「人間、そんなに強く自分を持ってない人ばっかりだもん。蓮を基準に考えるからおかしくなるんだってば」
「…………」
たとえば? と問いかけようとして、それはいくらなんでもズル過ぎるなと引っ込めた。ズッブズブのベッタベタに僕へ依存しているのが明らかなすずに投げかけていい質問ではない。
「わたしは雑魚だから、気にしなくていいって言われてもたぶん一生気にするし、罪悪感みたいなものもずっと消えないと思う。それこそ、本人が気にかける以上に、深く考えちゃう」
「……僕も大概だと思ってたけど、お前はお前で相当めんどくさいな」
「移ったかも」
「僕の持論を速攻で崩しにかからないでくれ」
罪悪感、か。きっと、どれだけ近しい関係になっても――いいや、近しい関係になればなるほど、解消が難しくなるのだと思う。誰かを思うがゆえ、その意思を知らずに汲んで不要な傷を負う。社会的動物が背負った、原初の業だ。……もっと気楽に生きられればいいに違いなくて、でも僕らみたいに後ろばかり振り向いて歩く性格の人間にそれは不可能。
結論。
「ままならないな、本当に……」
「……うん」
なんとなく、手を握る。細くて長い真っ白な指はまるで僕とは違う生き物のようで、触れるたび申し訳ない気持ちになる。……こういう無意味な感傷もまた、業にちがいなかった。
「そういえばさ、サッカーしてきたのはわかるけど、なんであそこまで汗だくだくで帰ってきたの?」
「いや、変な奴に突っかかられたり、他所のドロドロ愛憎劇に首突っ込んだりして、それを消化しようと全力疾走し……て」
「蓮?」
待て。待てよ。もしかすると、僕は大きな思い違いをしていたのかもしれない。
当時の僕を知っていて、その上で目の敵にしてくる以上は他のクラブにいたメンバーなのだろうと、勝手に範囲を狭めて考えていた。――だが。
僕に煮え湯を飲まされたという条件に限定すれば、それは身内にもあり得る話であって。
であれば。であれば――
「蓮、ちょっと、蓮ってば?」
「…………あー、そういうこと」
「どういうことよ?」
「パズルのピースがようやく埋まった感じだ」
「だからどういうことって聞いてるの!」
上半身を揺さぶられながら、僕はやっとのことで思い出すことに成功した。そうだ、確かに、そんなことがあった。辞める直前の記憶というのもあって、知らず知らずのうちに心の奥底へしまいこんでいたらしい。
「……上手くは説明できない。ただ、やることは定まったから」
「はぐらかさないでよ」
「まあまあ。――もうしばらく、見といてくれよ」
含んだ物言いで煙に巻き、今後の大まかな展開を描く。……やはり、焦点は球技大会になるのだろうなと、ここで決意を新たにする。
適当に流すつもりだったが、どうやらそうはいかないらしい。
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