第47話 喧嘩を売りに
「……………………」
「……………………」
僕は蚊帳の外だった。
二人はたっぷり五秒以上視線をぶつけ合って、最後には竜也が根負けして目を逸らした。やはり、氏家繭香が絡んだときの彼は過去にない表情を見せる。それが経験則メインで行動指針を立てる僕と相性最悪で、どうしようもなくなった僕は、大口を開けてハァハァ息を吐いている氏家の飼い犬の毛並みを眺め始める始末。この場で唯一気まずさという概念を解さないだろう生命体は、生き生きと頭を氏家の脚に擦りつけていた。
普段だったら「柴?」とか「何歳?」とか言って会話の糸口にしていたのだろうが、どう考えても今は場違い。今にも弾けそうな空気感に気圧され、僕から進んで口を動かせない。別個に話を聞くならまだしも、一堂に会するのは完全に想定外だ。僕の対応力のキャパシティはとっくに限界を迎えている。
「あっ、ちょっ!」
そんな空気をぶち壊せるとしたら、空気を読む必要がない参加者だけ。氏家が連れていた中型犬は突然駆けだして、リードが彼女の手から離れる。おや脱走かと思えば、別段遠くへ行こうとする気配もない。彼、ないし彼女は僕と竜也の周囲をくるくる何度か回ってから、最後は竜也の足元に寝転んだ。……まるで深く慣れ親しんだ相手を前にするように、無警戒にお腹を晒して。仕方ないなとばかりに竜也が撫で付けると、尻尾が左右にぶんぶん振れる。それはさながら飼い主に甘えているようで、こちらとしても色々と得られるものがあった。彼が小声で呟いた「久しぶり」が決定打。
「いつつ……」
竜也は膝をさすりながら立ち上がる……というより、立ち上がりたさそうな気配を察して、僕が無理やり吊り上げた。こちらの付き添いを当然に受け入れたあたりからわかってはいたが、彼は思いのほか重傷なのだ。慎重を期して通院しておくべきなのだろうが、あくまでそこは竜也の判断にゆだねられる部分であって、僕がとやかく言っても仕方ない。
眉間にしわを寄せる竜也を心配してか、中型犬は高い声で鳴いて鼻を竜也の足に押し付けている。空気を読まないとかなんとか言ったが、感情の機微にまるっきり疎いというわけでもないようだ。「よしよし」となだめすかしている竜也を視界の端に捉えつつ、僕は氏家側に視線を戻した。
「…………」
彼女は顔にあらゆる感情を滲ませながら、竜也たちを見ていた。上手く言い表せそうにないけれどその表情には奥行きと年季を感じて、僕が絶対に踏み込んではならない領域であることくらいは即座にわかった。糸はたぶん、僕の想定よりも複雑に絡み合っている。そこに外野が手出しをしたら、さらに思わぬねじれ方をするかもしれない。放置が最善であることは明々白々、僕が関わってなんとかなることなんて一つたりとも存在しない。
ここまでわかっていて、それでも引き返す意思が湧いてこない自分のなんと傲慢なことか。それどころかこの状況を最大限に活用するにはどうすればいいかなんて、浅ましい謀略を巡らせてしまっている。
「今日さ、クラスで集まってサッカーしてたんだよ」
「……へー、球技大会の自主練?」
「うん」
ワンヒット。引っかかった単語はおそらくサッカー。視線の揺らぎや表情筋の引き攣りを見落とさないよう渾身の集中力を発揮する。仕入れられる情報は、一つでも多い方が良い。
我ながら最低だ。外野が出しゃばってよそ様の事情をかき乱している。自分がやられようものならまちがいなく怒り狂う所業に違いない。
「そしたら竜也が足首くじいちゃって、ご覧の通り二人三脚状態に」
「それでわざわざ家まで付き添いするなんて、相当お人好しなんだね香月」
「まあね」
本当なら、まさかね、と答えるべきだ。僕は患部について言及したタイミングで氏家が竜也の膝を注視したのを見逃していないし、お人好しがこんなに意地の悪い真似をするはずもない。大体、彼女はさっきまで学校にいたはずのサッカー部のマネージャーで、であれば久留米が一年生の部員を駆り出して僕のクラスの練習に合流したことを知っていたのではないかとも怪しんでいる。それで素知らぬふりをすると言うからには、隠しごとがその近辺に潜んでいると見て良い。しょぼくれた洞察力でも、それくらいは見通せる。
「ほら、こたろう。汚れちゃうからあんまりごろごろしないのー」
氏家は言って、離してしまったリードを拾って手繰った。こたろうと呼ばれた中型犬は名残惜しそうに一鳴きして、ようやく竜也から離れる。よほど懐かれていて、しかし竜也は久しぶりと言った。その空白期間に、彼らの抱える問題ごとの本質があるのだろう。僕はそれを無遠慮に、無神経に、暴くのだ。手を誤ろうものなら恨まれること必至で、もし誤らずともヘイトを貯めることはまちがいない。もしかしたら迎える結末は当初の目標からマイナス方向へ大きく乖離したものになるかもしれない。それを知ってなお立ち止まろうとは思えず、自分の意地の悪さに内心で笑った。
僕は首を突っ込みにきた。竜也はそれを許容したから、僕をここまで連れてきた。なんて粗末な免罪符かと呆れて、しかし今一度腹をくくる。介入意思を固めた時点でいずれは起こることだった。多少の火花を散らす覚悟くらいはできている。
「二人、ご近所さんだったんだ。知らなかった」
「あれ、言ってなかった?」
氏家はしらばっくれるように首を傾げる。僕の見立てでは言っていなかったのではなく言いたくなかったのだと睨んでいるが、それを口に出しても意味がない。竜也は先ほどから口を挟んでくる気配がなく、彼女の前だと徹底的に調子が狂うらしい。あるいはぼろを出さないように努めているのかもなと疑いつつ、至って無害な表情を心がける。
「小学校が同じってだけだな聞いたのは。惜しい。せっかくだし、見ていけばよかったのに」
「あたしが? なにを?」
「竜也の活躍。知らないわけじゃないだろ、こいつがサッカー上手いの」
「そんなの見てもなんにもならなくない? 香月は知らないかもしれないけど、そいつ、中学生になって早々サッカーから逃げてんだよ?」
「言葉が悪いな。君だって知ってるだろうに」
「怪我のことならあたしだって残念だったと思ってる。でも竜也はそんなこと関係なしにいつかサッカー辞めてたよ。聞いた?『つまんなくなった』って言って、夏休みの終わりに退部していったの。結局そいつはサッカーが好きなんじゃなくて、サッカーで無双してちやほやされるのが好きだっただけの薄っぺらい奴なんだよ。一番になる努力もしないで、自分が一番になれる場所まで行くお山の大将なの。……そんなの、他のみんなが馬鹿みたいじゃん」
「…………」
なにか言い返そうとして、すんでのところで踏みとどまった。竜也の爪が肩にぎりぎり食い込んできたおかげで、かえって僕は冷静になれた。
しかしまあ、「つまんなくなった」か。なるほど。どおりで。いかにも天才肌の竜也らしいコメントだ。
「香月もさ、付き合う相手は考えた方が良いよ。これだけ言われてなんにも響いてないじゃんそいつ。そんな空っぽの奴と付き合ってたら、絶対ダメだって」
「全部が全部見たまんまってわけでもないと思うんだけどな……」
後頭部を掻く。竜也はほとんど表に出さないだけで、今もきちんと感情を波立てている。それが彼女に伝わらないことが、酷くもどかしい。
このあたりはもう性格の問題だから如何ともしがたいのだが、本心をひた隠す竜也と見たものを見たまま受け取る氏家とで致命的な食い違いが生じるのは想像に難くない。かつてなにがあったのかの輪郭がだんだんと明確になり始めて、ここから先どう動くべきかの方針がようやく決まってきた。
だが、それはそれとして、別に言っておかねばならないことがある。明確に、訂正を要求せねばならない箇所がある。
「そんなに薄っぺらじゃねえよ。何年か付き合った身として、それだけは絶対に認めてやらない」
僕の隔意に驚いてか、氏家は目を見開いた。少々言葉遣いが荒くなったことを省みつつ、まあこのくらいやらないと迫力が出ないし仕方ないと開き直った。友人が一方的に貶されているのを黙って見ていられるほどお利口な人間ではない。ここで引き下がっては今後の関係に差し障る。
「香月」
「まあ待て」
ようやく口を開いた竜也の制止を振り払う。引き時くらいは自分の目で見極められるつもりだ。こうなったら、限界ぎりぎりまで踏み込むしかあるまい。
氏家がしているのが善悪ではなく好き嫌いの話である以上、両者の発言に折り合いをつけることは難しい。相対的な基準であるので当然ぶれる。立ち位置の表明がそのまま対立を意味する状況に差し掛かる。どうしたって竜也側に立たざるをえない僕と、それを許さない氏家。
「空っぽだとか真剣じゃないとか努力もしないとか言うが、こいつ、君が思うほど諦めの良い人間じゃないぞ」
「どこが」
「意外と泥臭いところもあるよって話。まあ、そのぶんだと知らないみたいだけど」
「は?」
見立て通り感情的。僕の安っぽい挑発に、いとも容易く引っかかってくれる。頭に血がのぼれば当然口の回りは軽くなるので、情報を引き出すにはこれが一番手っ取り早い。ただ、そういう合理的な考え以上に、一発くらい反撃してやろうという意思が生まれ出てきていた。個人的な交友関係に口を挟まれるのが嫌いな性質なので、そのお返しくらいはさせてもらう。
「感情優先で生きるのも趣があって悪くないけど、君は果たして、自分が否定して拒絶した相手のことをどれだけ知ってるんだろうな。坊主憎けりゃって言うけど、近視眼的に竜也のやることなすこと全部否定してるだけなんじゃないのか」
「そんなわけない! あたしの付き合いの方がずっと長いのに、適当なこと言わないで」
「いいや言う。個人の名誉に関わることだ」
少なくとも、中学以降に関しては僕の付き合いの方が深いと思う。それに、なにも期間だけが決め手になるわけじゃない。口ぶりから察するに、彼女は竜也が中一の夏休みをどう送ったか知らない。どんな気持ちで、どんな葛藤があって、秋を迎えたか知らない。それを裏に隠したままでいた竜也にも責任の一端があるとは思うが、一方的に否定されていいこととは思えない。
当人が言うつもりのないことを代わって言うわけにはいかない。ただ、もどかしげに歯噛みしている友人の代役として憤るのは僕の勝手だ。怒りも悲しみも限りのあるものだから、それは周りにいる人のために使ってあげなさいと祖父から教えを受けてきた。使いどころとしては絶好。タイミングを誤るな。
「君の知っている及川竜也と、僕が知っている及川竜也の間には大きな開きがあるよ。まあ、これは知らせない竜也と知ろうとしない君の責任が半々くらいだと思うけど。……ただ、一方的に文句を言いたいのであれば、せめてその差を埋める努力くらいはしてくれ」
「なんでそんなこと言われなきゃ――」
「僕が不快だからだ」
「なっ――」
瞠目。僕の身勝手すぎる物言いに言葉も出ないといった様子だ。ただ、主観ベースで話すならこれくらいでいい。変に取り繕った正論は僕のポジションを曖昧にして、会話の行く先を蒙昧にするだけ。どこに立っているか表明するには、極端くらいで良い塩梅だ。
偏った知識では語らせない。それを良しとして許容する自分であってはならない。
「これはほぼほぼ自戒なんだが、付き合いの長さに胡坐をかくとロクなことにならん。今回を機に自分を見つめ直したらどうかっていう、外野からの提言」
氏家はわなわな肩を震わせ、僕に睨みをきかせる。ただ、同学年の女の子に凄まれた程度でどうこうなるわけもない。今ので決定的に嫌われて、今後没交渉になるのは明らかだが、得られたものもいくつかあった。トータルマイナスな気がしないでもないが、収穫がゼロでないだけマシ。
彼女の気が強いのは把握済み。これだけ言われて尻尾を巻いて逃げるような性格ではない。次のアクションにどう合わせるかに僕のアドリブ能力が問われるところだ。こうなれば反応を引っ張り出せるだけ引っ張り出して勝ち逃げしよう。そう考えて、肺に溜まった空気を吐き出すと――
「黙ってないで、あんたもなんか言ったらどうなん?」
いよいよ、竜也の方向へ延焼した。こうなるかと目の端をひくつかせて、さりげなく視線を横へ。ここまでずっとなすがままされるがままだった彼が、この状況でどう動くのか。考慮していなかったわけではないが、彼女が積極的に竜也と線をつなぐ可能性は低いと踏んでいた。ままならないものだと虚脱感が背中にのしかかるが、今はとにかく展開を見守るしかない。
「俺は……」
話しながら言葉を選んでいる感じだ。まだなにを言うか決めかねていて、その場つなぎで声を発したように見て取れる。どう動く。どう出る。それによって、僕の動きも大きく変わる。……ただ、いつまでもこの調子でいいのとは思えなくて、発破をかける目的で背中を軽くぽんとはたいた。肩が軽く跳ね、その勢いに乗せて、竜也は――
「俺は俺で、思うところ、あるんだよ」
「…………」
不可侵。竜也の言葉の後に、彼らだけにしかわからない視線のやり取りがあった。竜也は自発的に僕へ体重を預けるのをやめて、片脚を引きずる格好で氏家とすれ違う。そこで一言二言なにか言ったようだったが、僕の距離だと聞こえなかった。
氏家の表情に、特別な揺れ動きはない。意図して不動を貫いているようにも思えた。世界から一人取り残された僕は空いた片手をポケットに突っ込んで、棒立ちで傍観。向こうへ歩いていった竜也が振り向きざまに、腰の位置で小さく手を振る。お見送りはここまで、ということなのだろう。
「じゃあ、また」
誰にともなく言う。喧嘩を売りにきたわけじゃなかったんだけど……なんていうのは、今の氏家を見ると、とても言えない。
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