第32話 転調

 もう一回、もう一度とせがむ芦屋の背中をぐいぐい押して、ブースから撤退する。ただでさえ一度に二人が入るというマナー違反を犯しているのに、これ以上は悪行を重ねられない。一団体での独占や身内での順番ループは万死なので、他の客の待ちがあれば譲る構え。


「蓮、説明」

「見てわかったろ。補助だよ補助」


 仁王立ちで待ち構えていたすずをなだめすかそうとするも、後ろから飛んできた「そういうことよ。わかるでしょう?」という芦屋の余計な一言が火に油を注ぐ結果になった。ほんと、煽りあいでしかコミュニケーション取れないんだな君ら……。


「そういうことってなによ?」

「香月くんは奥手だから、身体的な接触を自然にできるシチュエーション作りに必死だったってこと」

「はぁ? はぁ???」

「奥手まではギリ許容範囲だが、それ以降は完全に冤罪。訂正を要求する」

「魔が差して?」

「もっと酷いわ」


 そんな痴漢上等な考え方で生きていない。僕が求めていたのは、感動の共有だけ。無論、聡い芦屋がこの程度を理解していないはずもなく、だから今のはじゃれ合いだったり予定調和の掛け合いだったりするわけだが、一方的に煽られた側のすずからすればそんなことはどうでもいい。


「蓮は女の子の体に触ったくらいじゃなにも感じないもん!」

「じゃあ、私が腰のあたりに感じた硬い感触の説明はどうつけるのかしら?」

「ベルトのバックルだ。わかってて言ってるだろ」


 芦屋の言もまあまあ酷かったが、今回はすずの方が深刻だ。僕を植物かなにかと勘違いしているのじゃないだろうか。手の柔さやシャンプーの匂いはばっちり頭に残っていて、消そう消そうとしても消えてくれない。表に出さないだけで、僕と煩悩とはそこまで縁遠い間柄ではないのだ。わざわざ口にしてみたり、あからさまに照れてみたりするのはちょっと違うかなと思っているに過ぎない。思春期男子特有のスカシを真に受けないでもらいたい。


「というか花柳さん、今あなたがすべきはもっと違う反応でしょうに。『わたしにも教えて』とこれ見よがしにお願いしてみればいいじゃない」

「…………ぐぬぬ」

「僕は左じゃ打てないし、それにこいつがそこそこやれるのは知ってる」


 たまには運動しようぜと強引に連れてきたことが何度かある。すずはお世辞にも運動神経が良い方ではないが、持ち前の腕の長さを生かした遠心力頼りの打法で、ぽこぽこと当たりは出せる。補助するまでもない。

 すっかり言い含められてしまったすずは、苦し紛れに言った。


「勝負よ勝負! どっちが多く前にボールを飛ばせるか!」

「望むところ」


 芦屋も芦屋で即答。二人とも、わかりやすく優劣のつく勝負が大好きなようだ。なにを賭けて争っているかは知らない。

 世界とは都合がいいもので、このタイミングで狙いすましたように左打席が空き、二人は闘志をめらめら燃やしながらブースへと消えていった。二人同時に始めたら勝敗もなにもないだろうと思ったが、どうやらジャッジは僕らに委ねられたらしい。


「退屈しないね、香月の人生は」


 少し離れたところで一部始終を静観していた竜也が、ようやっと口を開く。僕は「いくらなんでも刺激が多すぎる」と肩を竦め、彼から投げ渡された缶ジュースをキャッチ。


「いくら?」

「奢り。見物料」

「それじゃ、ありがたく」


 受付に行くついでに購入していたのだろう。プルトップを開けて喉に冷たい液体を流し込むと、一気に体の火照りが引く。


「スポドリってペットボトルのイメージだから、缶で飲むの新鮮だ」

「お初?」

「いや、小学生の頃に保護者の差し入れで何回か。でも、たぶんそれっきりだな。五年ぶりとか」

「五年前、ね」


 竜也はそのワードを抜き出して、「どう、オリンピック一回分跨いだ感想は?」と冗談めかして聞いてくる。


「スマホで動画を観ようが、パソコンで観ようが、得られる経験に差異はないだろ」

「それもそうか」


 彼も缶をあおって、それから横にことりと置いた。ベンチの背もたれに両腕を預けて、ぐーっと大きく伸びをしている。

 そこでふと、視界の端の方に留まるものがあった。見ればそこには僕らと同じブレザーを身にまとった男女入り混じった集団がいて、似たことを考える人間もいるのだな、と当たり障りのないことを思う。


「香月、球技大会はどうするの?」

「どうするって?」

「どれに出るのかなってさ」


 ウチの高校はなかなかにイカれているらしく、球技大会と体育祭が別々に存在する。生徒のガス抜きの意味合いが大きいのか、中間テストが終わって間もない六月頭に早速球技大会だ。学年の垣根を超えたクラス対抗戦。男子はバスケとサッカー、女子はバスケとバドミントン、そして男女混合のバレーボールがあって、トーナメント戦の順位に応じたポイントを稼ぐ。バドミントンって球技なのか? という問いに答えてくれる人はどこにもいなかった。

 

「希望らしい希望はないな。他のクラスだととっくに分担して休日練習なんか始めてるらしいけど、ウチにそれがないってことは、全体的にやる気ないんだろうし」

「文化部比率がちょっと高めだからね、ウチのクラスは」

「まあ、空いてるところに入れてもらうよ。数合わせくらいにはなる」


 全組初戦敗退で圧倒的最下位という未来もあり得そうだが、それならそれで構わない。テストと違って、赤点もペナルティもないのだから。クラス内に険悪なムードが流れたら息苦しくて最悪だが、そのあたりは芦屋が上手くバランスを取ってくれる。近くにいると誤認しやすいが、彼女は人心のさりげない誘導を得手としている人間だ。

 僕と竜也は示し合わせるでもなく、分担して芦屋とすずの打撃を眺めていた。ヒット性の当たりをカウントしながら、視線をかわさず会話を続ける。


「向こうに同じ制服の連中がいた」

「マジ? なんか、そういうのちょっと気まずいよね」

「友達だったらいいんだけど、そうじゃないときは距離感がな……」


 顔だけ知っている関係だったりしたらもっとしんどい。あいさつするべきか否かで惑って、たぶんずっともやもやしたまま過ごすことになる。ストレス発散という当初の目標から考えると、たまったものではない。

 だから、どうか他学年の完全な他人でありますようにと願って、指を一本折った。球数もそこそこに、すずのヒットは三本。バットに当てた数でいえばもっと多いから、まあ、悪くはない。

 芦屋の方がどうなっているか聞こうとも思ったが、やめた。俯瞰した感じだと、概ね似た数字になるはずだから。どうせなら結果発表で二つ同時に比べた方が面白い。


 ――そんな僕らの目の前を、先ほどのご一行が歩き去った。男二人、女二人という配分は奇しくも僕らと同様で、しかも通りしな、かなり露骨に顔を見られた。そういうのはもっと何気なく済ますものだろうと腕を組みつつ、カウントに戻る。


「めっちゃ見られたな。竜也、知った顔あった?」

「…………」

「竜也?」

「……あ、悪い、なんて?」

「いや、顔見知りがいたかどうか聞いただけだけど。どうした、ぼうっとして」

「なんでもないなんでもない。あと、たぶん一年生のグループだね今のは。廊下で見たことある」

「マジか。一番微妙な関係値じゃん……」


 向こうが見てきたのはそういう事情からか。僕の記憶にはなかったが、あちら側には引っかかりがあったのだろう。それで少し見過ぎてしまった、と。

 僕は撤収時期を早めることも視野に入れつつ、今しがた終わって戻ったすずと芦屋に、せーののかけ声でヒットの本数を伝えた。


「「五本」」


 唇を噛み、にらみ合う。やっぱり波長は結構合うだろと認識を新たにする僕を尻目に、二人は第二ラウンドへ突入しようとして――


「香月蓮!!!」


 ――しかしそれを、突如の大声が阻んだ。


 声の主は、僕と同じブレザーを羽織った男子だった。


「ここで会ったが百年目、だ!」

「えぇ……」


 なんだコイツ、までは口に出さなかった。


 とかく、名も知らぬ闖入者の参戦で、僕の平穏(?)な放課後の色は変わっていく――

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