二章
第30話 プロローグ
日々の端々から夏を感じ始めた五月下旬。高温と湿気とが合わさり不快指数急上昇中の放課後の教室に、人だかりができていた。ほとんどのクラスメイトが後方の掲示スペースに集まって、ああでもないこうでもないと大騒ぎをしている。そして、その大騒ぎの中で良く聞こえたのが芦屋みやびの名前だった。
僕はその様子を、友人の及川竜也とともに遠巻きから眺めていた。
「学年一位だってさ、芦屋さん」
「予想はしてたけど、実際見るとやっぱりすごいな」
つい先日に全日程を終了した一学期中間考査の順位表が張り出されている。あらゆる教科で満点かそれに近い点数を獲得した芦屋は、二位に大差をつけて総合一位の座に輝いた。隙間時間に参考書を開いたり、放課後に居残って勉強する姿を見てきた僕としては意外というほどでもなかったが、やはり身近な人物がなにかで一番になるのは不思議な感じがする。……あるいは、普段とのギャップか。
「別人だね」
「そう見えるだけだ」
芦屋は友達から褒められる→抱き着いて喜ぶという一連の流れを先ほどからずっと繰り返している。そこに、僕へ向かって怒涛のセックスアピールを連発してきたヤバい奴の面影はない。彼女は演技でもなんでもなく己の努力の結実と賞賛に喜んで、はしゃいでいる。変にクールぶるとかえってヘイトを買ってしまうのを直感的に見抜いているらしい。生きるのが上手いなと感心しながら、僕は自分の席へと戻った。食傷気味だろうから、僕からおめでとうを言うのは後でいいだろう。今話しかけたら悪目立ちしそうなのもある。
――だというのに。
「香月くん」
「うぉっ!」
机の中の荷物をせっせとリュックに詰め込んでいたら、肩をぽんぽん叩かれた。想定外の出来事に僕は情けなく声をあげて、反射的に振り向く。
「……びっくりし過ぎじゃない?」
「いやほら、世が世なら背後を取られた瞬間に人生の終わりだから」
「今はそんな世の中じゃないと思うけど」
僕視点では相当な乱世であるのだが、それを言っても始まらない。先ほどまで人だかりの主役だった芦屋はご丁寧に僕の座席まで赴いて、話しかけてきた。
忘れもしないゴールデンウィーク前。僕と彼女は教室でひと悶着あって、それを境に色々と起きた。男女問わずクラスメイトから話しかけられるようになったし、かなり迂遠に「付き合ってるの?」と聞かれることもしばしば。「ないよ」と言うと「そっかぁ……!」と明るい笑顔でみんな帰っていくので、いいことをしている気分になる。見たか世界。これがマッチポンプだ。
とまあ、そんな具合に僕らはなかなか注目されているのだ。男女問わずにフランクに接する芦屋だが、僕に関してはよりいっそうその傾向が強く出る。結果、僕に集まる嫉妬と羨望。目立つのはガラではないので、早く落ち着いてもらいたいものだ。
「ああ、そうだ。一位おめでとさん。混雑してるから後で言うつもりだったんだけど」
「ありがとう。でも、それを言うなら香月くんだって」
「まあ、うん」
上位五十人が張り出される順位表のまあまあ上の方に、僕の名前もあった。ほとんど一夜漬けだったが、ヤマ張りが上手くいった感じだ。
「全然勉強している様子がないのに十二位でしょ? 要領で言ったら私より香月くんの方が上かも」
「まぐれだよまぐれ。それに、どんだけポテンシャルがあろうとやらなきゃ無意味。ちゃんと結果出してる君の方がすごいよ」
素直に褒めると芦屋は誇らしそうに口許を緩め、その勢いで続けた。
「放課後、時間ある? お疲れさま会でもどうかと思って」
「参加メンバーは?」
「こことここ」
自分と僕とを交互に指さす芦屋。二人きりの催しを『会』扱いしていいものかと頭を悩ませたのち、僕は答える。
「悪い。今日は先約がある」
「花柳さんなら大丈夫よ」
「なにが大丈夫なのか一ミリもわからん」
「後からいくらでも時間を作れる花柳さんと、限られた時間でしか会えない私。優先順位が高いのはどちらかしら」
「友人に優劣をつける趣味がない。それに、すずは関係ないんだ」
言って、隣で同様に荷物をまとめていた竜也の方へ視線誘導。
「発起人。今日の放課後の予定を述べてくれ」
「テストも終わってようやく解放されたし、たまには思いっきり体を動かしたいなってことで、バッセン行こうって話になったんだ」
「バッティングセンター?」
「そ。気分いいんだよね、あれ」
竜也はバットを振る真似をしながら言う。中学時代から僕らは面倒な行事が終わるたびにストレス発散の名目で色々とやってきた。ゲーセンに行って一日を潰してみたり、適当に乗り込んだ電車が停まったまるで知らない駅の周りを散策したり。色々やって、最終的にスポーツが一番手ごろでスカっとするのだと落ち着いた。
「久々だと全然当たらないんだけどな」
「まあ、空振りもまた良しって感じでさ」
荷物をまとめ終えた竜也がリュックを背負う。そして言う。
「芦屋さんも来る?」
「良いの?」
「その方が華やかになって香月もやる気出るんじゃない?」
「僕を色魔みたいに言うな」
女の前だから張り切るってタイプの人間じゃないんだ僕は。そんな外的要因でパフォーマンスを変えてたまるか。
しかし、竜也はまたどうして……。
「涼音ちゃんも呼んでさ」
「待て待て」
修羅場を回避することに心血の全てを注いできた君はどこへ行ったのだ。あれっきり、二人が顔を合わせると挨拶レベルで小競り合いを起こすのを知っているだろうに。まあ、それでも僕は機会を作って二人を会わせるし、仲裁もしてきたのだけれど。しかしそれは、すずが素の自分を存分に出せる場所を増やそうという僕の計らいであって、竜也が噛む必要はない。だからこそ、今の提案は特異に映った。
「行く」
芦屋は即答。すずへの対抗心がわかりやす過ぎる。それと同時に、僕にはすずへの連絡義務が生じるわけで……。
『これからバッセン行くんだけど一緒に来る?』
『クーラー効いた部屋でゲームしたい』
『芦屋も来るって言ってるんだけど』
『今すぐ行くから待ってて』
文章から伝わる疾走感。こっちもこっちで対抗意識が著しい。足早に去って荷造りを始めている芦屋を視界端に捉えながら、僕は竜也に言った。
「どういう風の吹き回しだよ……」
「俺にも色々あってさ」
ウィンク。野郎からもらってもうれしくないよと、僕は虚空を手で払った。
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