第29話 ファーストエンドロール
正座か胡坐かでどちらが楽かと言われたら、断然胡坐派だ。足が痺れて堅苦しい正座など、強く要求されでもしなければやりたくない。というかできることなら椅子に座りたい。――しかしそんな僕は、どういうわけかお行儀よく自室の地べたに正座をしていた。寺で説法を受けているわけでもなく、和室で茶道をたしなんでいるわけでもないのに、両の親指をぴったり重ね、太ももに一ミリの隙間も作らず、ピンと伸ばした両手を膝上に並べる百点満点言うところなしの正座で、真向かいから飛んでくる叱咤に立ち向かっていた。
「蓮、正座」
「もうしてるんだよ。見たらわかるだろ」
「精神的に正座」
「なにか、心は胡坐をかいているってうまいことを言ったつもりか」
「……なに言ってるの?」
「通じないの普通に傷つくな……」
僕の深読みだったらしい。空振りしたことを恥じつつ、いま一度正面を見た。
花柳涼音に見下ろされている。これは僕にとって、何度目になるかわからない体験だった。つい昨年までずっと僕より背が高かったすずは、基本的に僕を見下ろす立場だった。最近ではそれがようやく覆ったというのに、どうしてか今日はまた僕が見上げる側になっている。長い脚を惜しげもなく晒し、大きな胸を存分に張って立つその姿は僕の良く知るすずそのもので、得も言われぬ安心感があった。
「……で、僕を正座させた理由はなんなんだ?」
「ふざけてる?」
「ふざけてはいないが、とぼけてはいる」
「知ってるじゃん!」
そりゃあ知らないという方が無茶だ。いくらなんでも思い当たる節が多すぎる。胃痛と頭痛が同時に襲い掛かってきて、そのうえ昨日の光景がフラッシュバックする始末。情報過多で息もできない。
昨日というところからもわかる通り、現在は日曜。ゴールデンウィーク二日目。眠りこくる僕を忍び込んできたすずが起こし、なんとも言えない雰囲気のまま顔を洗って歯を磨いて、それでもやっぱりいつも通りに漫画を読んでみたりゲームをしてみたりで時間を潰していた。
昨日、花柳家に届けたその瞬間までふにゃふにゃで言語能力と思考能力を完全に喪失していたすずが復調したのはうれしい限りだが、できることなら今日は会いたくなかった。嫌でも例のあれこれが話題にあがるだろうし、詳しい感想なんか求められたときにはもう地獄だ。……それに唇云々の話をしたら、これまで僕らが無言で示し合わせて語らなかった中学二年の冬が蒸し返されるのは明らかだから。
そんなときだった。
ウチの玄関から、来客を知らせるチャイムが響いたのは。
『来ちゃった』
『昨日の今日で来ないでくれ……』
二日連続で清楚な装いに身を包んだ芦屋がそこに立っていた。母親から昼に宅配便が来ると言われていたので、完全に無警戒でドアを開けた自分を恨む。
まあ僕も人間だし、男だから、あんなことがあっては当然意識する。見るな見るなと思っても視線は不思議と彼女のぷるりとした唇へ吸い寄せられるし、そうなれば当然昨日のショッキングな体験を思い出すしで、気持ち悪く頬を染めてそっぽを向く始末。それに気を良くした芦屋は『好感触でなにより』と得意げで、八方塞がりも良いところだった。
『お邪魔して良い?』
『ダメって言ったら?』
『私と香月くんがお付き合いしてるって噂を私公認で広める』
『うちの上がり框かなり高めだから気をつけてくれ』
『この前訪ねたときよりも紳士的ね』
完全に急所をおさえられてしまったのだから当然だ。芦屋の男子人気は明らかで、それがもし僕なんかと付き合っていると知られた暁には学校から居場所が消失する。体育のバスケがドッジボールに変わってしまう。……普段通り接する限りはそんなことは起こらないと信用しているけれど、しかし裏を返してしまえば、僕の対応次第ではもしかしたらが存在するということで。
であれば、下手なことはできなかった。
『……一つ訊きたい』
『なに?』
『芦屋は僕と、いわゆる恋人になりたいのか?』
『ええ』
『……でも君も知っての通り、僕は――』
続きを言おうとして、しかしそれは昨日同様のないしょポーズで阻止された。可愛い奴しか似合わないポージングを平気でこなせるんだから、芦屋は大したものだ。
『恋人になって手を繋いでお出かけしたいし、なんでもない話題で深夜に長電話してお互い寝不足のまま学校で会いたい。ハグとかキスとかを繰り返して、高校生活を色づけたい』
『ロマンチックオブザイヤー大賞……』
『もちろんエッチなこともする。空き教室で息を殺して、恋人しかできないすごいキスをするの』
『しないが』
『もちろんその流れでセ〇クスもする』
『ちょっとイイ感じだった余韻を殺すな。そんなことはしないんだよ。学び舎をなんだと思ってるんだ』
『香月くんこそ、JKと合法的に制服セ〇クスできる期間があと三年しかないことを軽んじすぎじゃない?』
『みんながみんな制服セ〇クスを至上命題にして生きていると思うなよ』
母親が出かけていて心底よかったと思った。今の会話を聞かれたら、単身赴任中の父まで参加したリモート家族会議が始まってしまう。親の前で性に関わる話をする以上の地獄はこの世に存在しないのだ。
で、そのまま芦屋を僕の部屋に案内し、当然のごとくすずが怒り狂って今に至る。定位置にでもするつもりなのか、芦屋は今日も回転椅子にちょこんと座っていた。
「だいたい、芦屋さんはなんの用があって来たのよ?! 連絡もなしに非常識でしょ」
「香月くん、花柳さんは今日連絡してからこの部屋に?」
「いや、違うけど……」
「わ、わたしはほら、蓮がだらけきった生活を送らないように……」
「じゃあ、今現在起動中のテレビゲームはどう説明するのかしら?」
「…………」
「やめとけすず。言い合いでお前に勝ちの目はない」
「でもぉ……」
半泣きで僕に助けを求めてくるすずだったが、この場ではなにを言っても地獄だ。「僕は別に悪く思ってない」でも「いつものことなんだ」でも角が立つ。よって沈黙が正解。
そうしている僕らを一通り観察した芦屋は、「へえ……」と意味ありげに呟き声を漏らした。なにを察されたのかわからなくておそろしい。
「花柳さん。これがあなたの弱さよ」
「……口げんかが弱いからってそんな悟ったように言うことないじゃない」
「いえ、そうではなく。昨日時点でかなり悶々としていたはずの香月くんを押し倒す時間があなたにはいくらでも用意されていたのに、この体たらくはなに?」
「はぁ? はぁ~~~??? 不潔! 最悪! なんでいきなりそんな話になるのよ!」
「僕が悶々としていたって前提で話すのやめてくれない?」
「ちなみに私は――」
「聞いてない。あと今回に関してはそれ以上言ったらなにがあっても絶交する」
「でも、実際ちょっとはムラムラしたわよね?」
「…………」
「蓮?!」
糾弾の叫び声が部屋にこだまする。……だって仕方ないだろう。そういう風に作られて生まれてきたのだから。非難するなら神様とか摂理とかいった超常的なものに限定すべきで、僕個人が貶められるのは割に合わない。
「君がどこを目指して突っ走っているのか、僕にはもうわからん……」
「理解は求めてないもの。ただ、最後に望んだ結果が私の手にあればいい」
「かっこいいこと言いながらゴミ箱ちらちら見るのやめな? 君が喜びそうなものは入ってない」
「残念」
頭を抱える。会話の意図を理解したようですずは頬を真っ赤に染め、気まずい沈黙が訪れる。数日前まで安息安住の象徴だったこの部屋は、いつの間にか地雷だらけのトラップルームになってしまった。右を見ても左を見ても火薬だらけで、言葉一つで爆裂爆散。結果身動き取れずに固まるわけだが、そもそもここは僕が所有し実効支配する場ではなかったのか。
わからん。なに一つ。どうでもよくなって体をベッドに投げ出し、天井の一点をぼうっと見つめる。考えごとをしようにも横から感じる視線のせいでうまく言葉がまとまらず、それどころか昨日のワンシーンがプレイバックされる有り様で、僕はもう、いよいよ本格的にダメになりつつあるらしかった。
そのタイミングで、玄関からピンポンとベルが鳴る。今度こそ本当に宅配便だろう。「ちょっと外す」と言い残して部屋を後にする。……その短期間で喧嘩にならなければいいけど。
********************
仲裁役たる蓮の不在により、二人の間に流れる険悪なムードはいっそう苛烈さを増していた。昨日の清算も済んでいない今この時に、また新たなる火種。一触即発一歩手前のラインで、涼音とみやびは視線をぶつけ合う。
「こんなとこまで押しかけて、本当になんのつもりよ……」
「いえ、実のところ本当に危惧していたのよ? 昨日の結果あらぬ方向に関係性が発展して、あなたたち二人が夜通し盛り上がっているんじゃないかって」
「なっ! だ、だから、なんでそんな不潔なことばっかり……!」
「でも正直してみたいでしょ?」
「…………」
「自分のものにならなくてもいいなんて言いつつ、どんな形であれ初めては香月くんにもらってもらおうとしていたでしょ?」
「…………」
「私もそう」
「……二番煎じのくせに」
「回数を付き合った日数で割ったら私の方が優勢ね」
「…………それでもわたしの方が優勢だもん」
「最低百回以上はしている計算になるわよ」
「…………」
「まさかあなた、今朝も……?」
「……これで芦屋さんは過去の女」
「卑劣な手を……」
前髪をアップした家仕様で威嚇する涼音。ばりばり敵意のこもった視線を浴びているのにまるで平気だという事実には、緊迫した状況のせいで気づけていない。奇しくも、惜しむらくも、蓮の望み通りに好き勝手話ができる間柄になってしまったことには、まだ気づけていない。
「悔しかったら、無防備に肩を預けてすやすや眠りについても問題ないくらいの関係性になってみたら?」
「それ、信頼ではなくて単に無警戒なだけよ。緊張感がないとも言う。男女の関わりとしてはちょっと……ねぇ?」
「ねぇ、の後に絶対(笑)つけたでしょ! わかるんだからねそういうの!」
「…………?」
「とぼけるなぁ!」
舌戦を展開しながらも、両者ともに変に育ちがいいので、殴ったりものにあたったりはしなかった。そうやって発散できないせいで舌禍が膨らんでいることはつゆ知らず。
「だいたい、いくらでも機会があったのにずっと日和って今に至るのだから、誰に横入りされようと文句を言えた立場かしら?」
「こっちにも事情があるんですー! それにそれに、ここはわたしの特等席で……」
「特等席(笑)」
「だからぁーっ!」
「私はきちんと好きって伝えた。一方あなたはどうかしら?」
「…………ぐぐぐ」
「この時点で趨勢は決まっているの。好き? 一緒にいたい? それ、言わずにわかることかしら?」
「……蓮ならわかってくれるもん」
「だったらあなたを尊重して、私のことなんか早々に突っぱねるんじゃなくて?」
「…………」
「…………」
膠着。にらみ合い。二人がそうしている一方で。
部屋前、ドア越しに人影が二つ。
********************
「聞いちゃいけない話が次から次へと漏れ聞こえてくるんだけど」
「じゃあ聞かないでくれ。聞いてもいいが忘れてくれ」
宅配便かに思われた来訪者は、実は単なる来客だった。「よ、大将」と気さくに語りかけてきた竜也は玄関に女物の靴が並べられているのを見るや否や修羅場の雰囲気を察知したようで、その場でさっさと回れ右。しかし僕がそんなことを許すはずもなく、一緒に地獄へ付き合えと強引に引っ張って部屋の前まで連れて来た。
案の定というか、室内では大暴露大会が絶賛開催中。まるで穏やかではない会話の応酬に、やはり僕の胃痛はマッハなのだった。
「芦屋さん、はっちゃけるとあんな感じなの?」
「らしいな。僕も最近知った」
「なんかもう五秒に一回のペースでセ〇クスって言ってるんだけど」
「どうしても僕としたいらしい。どうだ? 羨ましいか?」
「美人でスタイルも良いのに、香月の立場を思うとこれっぽちも羨ましくない……」
「それがまんま今の僕の心境だよ」
「あと涼音ちゃんも色々ぶっちゃけてるけど、これ本当に良いの?」
「良いってなにが?」
「香月の人権的な問題」
「非実在青少年の権利すら求められている昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか」
「香月の実在性が非実在性に完敗してる……」
僕の行先が不透明すぎて、一周まわって笑えてくる。ほんの一週間前まで僕を取り巻く日常は平穏そのものだったなんて言っても、誰が信じてくれるのか。
こっそり逃げ出そうとする竜也をしっかり捕獲しつつ、ヤケを起こした僕は勢いよく部屋のドアを開けた。その瞬間会話がぴたっと止まって、次いで僕の腕の中でもがく竜也に視線が注がれた。
「……なんで及川くんが」
「宅配便じゃなかった。まあ、男女比調整ってことで都合が良いだろ」
ベッドの脇からクッションを引っ張り出して竜也に押し付け、「良くない。俺が良くない」なんて弱音を黙らせる。僕の人生を娯楽として消費するというのなら、君もまた同等の胃痛を味わわないとアンフェアじゃないか。
完全なる第三者の介入で、見かけ上は場が落ち着く。ちょうどいいから、今後は彼に緩衝材としての役割を期待しよう。
「それじゃ、取りあえずゲームでもするかぁ」
会話で盛り上がるなんてとんでもない。友達の友達だからって友達にはなれないと、嫌と言うほどわからされた。
けれど、それでも。
「じゃあ、私は香月くんの隣を失礼して」
「ちょっと! そこはいつもわたしが座ってるとこなんだけど」
「じゃあ、ゲームの勝敗で決めましょうか。どちらが『上』か」
「望むところよ……」
自然体に、フラットに、当たり前に喧嘩ができる。こういうつながりも、完全にナシとは言い切れないんじゃないかなぁと、僕は思って、笑って。
そこを竜也に小突かれて、僕らにしか聞こえないくらいの小声で問われる。
「ちょっと楽しんでない?」
「まさか」
楽しくなんてない。面白くなんてない。……でも、今を否定する気も起きない。
これが、僕が手にした新しい形なのだろうと妥協して、開き直る。
ちょっとでも前向きに、わずかでも上向きに、目の前の事象を極力肯定的に捉えて、こんなのも悪くないって、ニヒルに笑ってみせる。
山積された問題からはきっちり目を逸らして、今はただ、今しか感じることのできない空気感に、全身全霊で浸るのだ。
逃げ腰上等。年季が違う。
と、まあ、そんなこんなで。
僕の変わってしまった日常は、これからもずっと続いていく。
「ねえ! わたしばっかり妨害しないでよ!」
「殴りたくなる造形をしていたから……」
「なによぅ……!」
「あら、なにかしら?」
「…………」
「…………」
いや、マジでこれからずっとこの調子なのか……? 胃痛どころか寿命がマッハなんだが……。
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