第15話 花柳涼音とは4
捜索開始から三十分と少々経って、僕はとある一つの懸念にぶちあたってしまった。「トイレに隠れられたら終わりでは?」という、あまりに単純かつ男に対して絶対無敵の防御力を誇るウルトラCである。もしその手法を取られたら開幕ゲームセット。争いにすらならない。
しかし、可能性に気づいたところで男である僕が女子トイレに干渉する手立てなどない。なれば仕方ないと、芦屋に連絡して調べる範囲を変更してもらった。「トイレの中を頼む」という文面は我ながら変態性の塊のようで、スクリーンショットでもばらまかれようものなら僕の高校生活は即時終了。そんなことは起こり得ないとわかっているから心配はないけれど。
しかし、なかなか上手くはいかないものだ。あいつが好んで潜伏しそうな場所はあらかた検めたが、影も形もありやしない。手がかりすらないのだから困ったもので、僕は一度、八組の教室の前へ訪ねた。誰かに話を聞くつもりはない。嫌な信頼だが、すずに日頃仲良くしているような友人がいないのはわかっている。僕はただ、まだあいつの荷物が残っているかを確認したかった。
教室の入り口に立って目を凝らす。すると、中央当たりの席に見慣れた筆箱を発見。机の脇にはこれまた見覚えのあるリュックが提げられていて、あいつが手ぶらで帰宅するなんて暴挙に及んでいない限りはまだこの学校内にいることは確認できた。
「つってもなぁ、アテは探し尽くしたし……」
もちろん人間は移動するから、何度も同じ場所を見て回るというのも一つの手。けれど僕の勘が、すずに限ってそれはないなと言っていた。勘と言うよりは経験則で、あいつは一度根を張った場所からなかなか動かない。それの究極発展形が僕の部屋だ。
つまり、僕がまだ探していない場所にすずはいる。トイレか、それとも他の場所か。狭くて、人目につかないような都合のいい場所……。
「……あ」
そうだ。まだ一か所だけ、ノータッチのポイントがある。無意識のうちにありえないだろうと条件から外してしまっていた。その場所の存在は、いつだか語って教えてある。
「旧図書室……」
急旋回。半ば確信めいた思いとともに、僕はその場所へと歩みを進めた。
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相も変わらず埃っぽく、かびのじめっとした匂いが広がる空間だった。一目に生徒の影はなく、いつも通り閑散としている。僕は司書さんに一礼して、それからずんずんと奥の方へ歩いていく。新書棚、一般文芸棚、海外翻訳棚、参考書棚、通り過ぎる列を一瞥しつつも、向かうのは最奥。不人気かつかさばるということで奥に追いやられている、この高校にまつわる文献の棚。その隅っこ。
そこに、いた。劣化の進んだ古文書のような紙を繰りながら、物憂げにため息をつく長身の少女が。くしくしと前髪をいじりながら、つまらなさそうな文字列を淡々と目で追う彼女の背後へ、僕は足音を極力殺して近づく。
「それ、つまんないぞ」
どうやら気づかれていなかったようで、少女の肩がびくっと跳ね、口からは「きゃっ!」という短い悲鳴も漏れた。それが恥ずかしかったらしく彼女は咄嗟に口許を両手で覆って、その影響で取り落とされた文献は僕がキャッチ。
「沿革を事細かに書き連ねてあるだけだった。女子高として発足された百年だか前の話から始まって、戦火をどうやって耐えたかとか、どこのお偉いさんに援助してもらっただとか、おおよそ今の時代の若者が知っても喜べないような話がつらつらと」
「あんまり埃被ってないと思ったら……」
「前に暇つぶしがてらな」
閉じてカバーに入れ直し、元あった場所へ戻す。以前、どんな思い入れでもってこの老朽化しきった施設が取り壊しを免れたのか調べたのだが、空振りだった。卒業生に聞けばわかることなのだろうが、そこまでする気力もない。
目の前に立っている少女は、対面する相手が僕とわかってなお前髪を下ろしっぱなしだった。その年季の入った人工遮光カーテンこそが、彼女の心を守る拠り所。盾や鎧。壁や塀。まさしくそれらの役割を果たして、花柳涼音を辛うじて学校という空間に存在させていた。
さて、なにから話したものだか。そう思って一歩すずに近寄ると、彼女は僕が詰めた分だけ後退。おいおいともう一歩寄ると、やっぱり同じ分だけ後退。それを何度か繰り返し、最後には列の逆サイドにまで到達していた。
「なぜ逃げる」
「陽菌が移る……」
「初めて聞いたわ。なんだそれ、陽キャになる因子か?」
「芦屋さんといちゃいちゃして、蓮もすっかりそっち側になっちゃったんだ」
「いちゃいちゃはしてないし、いくら明るい連中と付き合ったところで僕の根暗は治らない」
竜也と三年関わっても、特にこれといった変化は生じなかった。僕の精神性がそう易々と揺らぐと思ったら大間違いだ。
「……どうして電話取ってくれなかったんだよ」
「取ったら居場所がバレるでしょ」
「バレたらどうなる?」
「捕まる」
「捕まると?」
「……色々面倒になる」
僕は「ほーん」と相槌を打って、お望みどおりにその細い手首を掴んだ。ここから逃亡されて捜索第二ラウンドとなったら目も当てられない。
「離しなさいよ」
「離したらどうなる? 逃げるだろお前」
「隣に住んでるんだからどっちみちわたしに逃げ場なんてないのよ」
「拗ねて自室に籠城したお前が世界で一番厄介だから言ってんだ」
かつて僕が岩戸開きにどれだけ時間をかけたと思っている。一回閉じこもったすずはまあ強情で、ちょっとやそっとじゃなびかない。なんとなくだが今回はその予兆のような気がしてならず、面倒ごとの芽は早いうちに摘んでしまいたかった。
「拗ねてないもん!」
「お前が声張るときは不機嫌だって相場が決まってる」
「はぁ? なにそれ? わたしが一体なににムカついてるって言うのよ?」
怒涛の質問攻勢。主観でも客観でも苛立っている人間にしか見えなかったが、そこを指摘するとまたヒートアップしそうなのでやめた。すずはそのまま「反論がないならわたしの勝ちだが?」とインターネットに染まり切ったオタクのようなマウントを取ってきて、僕はそれに頭を抱えつつ、一つ言い返した。なんか僕、ここのところ日に三度は頭を抱えている気がするんだが。
「重要ワード。独占欲」
「……わたしがなにを独り占めしたがってるって?」
「僕だろ」
「はぁ? はぁ? はぁ?」
「竜也を紹介したときもこんなん感じだったろお前。基本、僕の周りにいる人間に対して初めは辛辣だよな」
「い、いや。いやいやいやいや」
「おっ、バグってきたな」
順調に語彙力が薄れ、それに反比例するように体温の上昇が確認できた。そっちがそういう態度を取るなら僕にだって考えがありますよということだ。
「心配しなくても、お前に構えなくなるわけじゃないよ」
「構って欲しいなんて言った? わたしが?」
「態度で露骨に」
「自意識過剰ってご存じ?」
「今日の授業中、延々ぽちぽちぽちぽちLINE送ってきたのはどこのどいつだよ……」
「それは違うでしょ。だってだって、早めに予定立てとかないとゴールデンウィークなんかすぐ終わっちゃうもん」
「僕らが予定通りに行動できた試しがないんだっての。行き当たりばったりが基本で、後は風の吹くまま気の向くままだろ」
「それをどうにかしようって言ってるの!」
「どうしても授業中にしなきゃならない話ではないだろうよ。不要不急だ」
「緊急事態ですー! 喫緊の課題ですー!」
「覚えたての言葉使いたがる小学生かよ……」
長い手をぶんぶん振って、己の主張をどうにか通そうとするすず。この恵まれた図体で小動物感を出せるのは一つの才能だよなと思いつつ、彼女の蛮行を嗜める。
「お前、靴履き替えずにこっち来たろ。お陰で外に出てるって発想がなかったんだけど、あんまり床汚すなよ」
「元々汚れてるし、一応脱いでるもん」
「よく見りゃ靴下だな……。それはそれで埃っぽくなるけど」
変なところで律義だ。上履きは入り口のあたりにでも置いてきたのだろうか。
「っていうかなに? 蓮はわたしがかまってちゃんだって言いたいわけ?」
「わけもなにも、どストレートにそう伝えたつもりだが?」
「どうして?」
「お前の友達が僕一人だけだからだろ。誰かに取られたら終わりだ」
「…………」
「ほら図星」
「……ぐぐぐ」
「えぇ……」
万策尽きたのか、すずが望んだのは『力による決着』だった。自分が壁際にいるのを利用して僕の上半身を強引に押し、外へ外へと追いやろうとしてくる。
一つ大きな問題があるとすれば、僕視点では完全な相撲に映るこの体勢も、傍から見れば熱烈な抱擁であるということか。土俵があればわかりやすかったのだが、ここはただの図書室。それも人の目につかない死角。芦屋じゃないが、よからぬことをしようとしている風に取られてもおかしくない。
僕は押されぬように、倒れぬようにと踏ん張って、不可抗力ですずの細い腰に触れる。身長が似たり寄ったりとは言え男女で力の差はあって、基本は僕が優勢。だが、壊さないようにと細心の注意を要求されるせいで、イマイチ力を込められない。しかしすずの辞書に加減や容赦の文字はないから、僕の上体はぐいんと限界ぎりぎりまで反っていた。
さすがにこのまま押し倒されたら新品のブレザーをクリーニングに出す羽目になりそうで、僕はすずの背中をぽんぽんと二回タップ。口でも「体力の限界。気力もなくなり……」と大横綱千代の富士よろしく降参の意を表明して、この話はここで終了。――そうなるはずだったのだが。
「取りあえず倒されなさい……!」
「なんだその勝ちへの執念……」
すずは力を緩めるどころか、よりいっそう密着して僕を押してくるのだった。そうすると柔らかい場所の感触が嫌でもダイレクトに伝わってくるので本当にやめて欲しい。制服越しにもわかるとか、一体どれだけ恵まれているのだこいつの体は。
僕をどうしても倒したいすずと、ブレザーが汚されるのを嫌う僕とで完全な膠着状態。こんなしょうもないプロレスを学校でやってどうするのだという呆れが喉元までやってきたが、どうにか飲みこんで踏みとどまる。さてどうするか。もういっそ、腹で吊って浮かすか。足さえ地面から離れてしまえば、押しは一切の意味を失うのだし。
早いうちに諦めなかったお前が悪いんだからな? と心の裡で言い訳して、僕は両手を彼女の背中に回した。そして、渾身の力を込めて持ち上げ――
「――お取込み中?」
横から、声がかかった。聞き覚えのあるソプラノボイスだ。声の主は容姿端麗な女子で、彼女は腕組をしながら、至近距離で僕らを見守っていた。
っていうか、芦屋だった。
連絡するの、完全に忘れてた。
「ここにも一応トイレがあったなと思ってダメもとで探しに来てみたのだけど」
「……ごめん、見つけたって一報入れるべきだった」
「構わないわよ。どうにも事情がありそうな様子だし」
「あ、ああ」
「私に気を遣うことはないから、続けて?」
そうは言われても、声をかけられた瞬間からすずは完全に活動を停止し、僕の肩に顔をうずめるだけになってしまっている。押し合いへし合いをなくせばこれはもう完全に抱き着いているだけで、弁明のしようもない。「違うんだ」も「待ってくれ」も、今言ったところで、という話である。
「いや、まあ、この体勢になった理由も話せば長くなってな」
「ふむふむ」
「これは日本の国技であるところの相撲を踏襲した、僕ら独自の喧嘩のおさめ方で……」
「なるほど」
「負けた方は文句を言う権利を失うという、単純明快なルールのもとで執り行われていて……」
「それで」
「……こういうときに限って下ネタで茶化してこないのはなんなんだ?」
「割と本気でセッ〇スの邪魔しちゃったんじゃないかと思って」
「ち、違うから!」
短めの充電期間を挟み、すずが復活した。相変わらず芦屋相手にははきはき喋れるようで、目元は隠しながらも真っ向から立ち向かっていく。
芦屋は、この前とはずいぶん趣が異なるすずの装いに一瞬戸惑いの表情を見せた。まあ、気持ちはわかる。髪型一つでまるっきり別人に見えるくらいだから。
「違うと言っても、今のはどう見ても前戯……」
「心が穢れてるからそう見えるだけ! ただのじゃれ合いでしょあんなの!」
「香月くん的にはどう?」
「……言い訳に窮するところがかなり多いというのは認めざるを得ないな」
「蓮?!」
「客観的事実だ。こればかりは芦屋でなくとも勘繰られる」
「ちょ、ちょっとぉ……」
本来なら僕はすずの側に立ってやるべきなのだろうが、こればかりはいかんともしがたかった。このレスバトル、始まる前から既に敗北している。僕らにできるのは、いかに上手く撤退するかの駆け引きだけ。
「前にも言ったけど、こいつの僕に対する距離感は大概バグってる。常人がアウト判定出すところも、こいつの裁量じゃセーフになるんだ」
「それを修正してあげるのが幼馴染の香月くんの役割では?」
「ぐうの音も出ん」
「ちょっと蓮?! 白旗あげるの早すぎ!」
「いやほら、ここらへんからもうダメなんだって。文句つけるだけなのに僕の上半身にしがみつく意味がない」
「…………」
言って、咄嗟にすずは後退。それはそれで汚いものに触っていたみたいな雰囲気が出て嫌だが、この状況下でべたべたされるよりは幾分かマシかもしれない。
すずは「うぅ……」と唸って、せめてもの抵抗か芦屋をきりりと睨むと、「違うもん……」と言って再び充電期間に入った。早い話が動かなくなった。
「可愛い生き物ね」
「手間がかかるけどな」
芦屋の率直な感想に、僕も率直に返す。ここだけ切り取れば完全にペットの扱いである。すずが黙ってしまった今、僕が弁解しなければならないのは明らかなのだが、どうせそれをしたらしたで次の厄介ごとがふりかかってくるのが目に見えて、もうどうでもよくなってしまった。
「それで、追加の言い訳は?」
「もういいや。判定は君に任せる。どうせこの先も似たような問題が多発するだろうし、そのたびすったもんだするのが面倒」
「……じゃあ、評価は保留してあげる」
「いいのか?」
「ただ、さっき言ってた報酬、ここで確定させてもらうわね」
そういえばそんなことを言った。なんでも言うことを聞くとかなんとか。倫理にもとらないようにと注意こそしたが、もう少し追加条件を設定しておくべきだったと今更後悔。
身構える。どんなヤバいお願いが飛んでくるのかと警戒する僕に対し、芦屋が提示してきたのは――
「この前、話したじゃない。いつかCDショップ巡りできたらいいねって」
「ああ、したな」
「明日って時間あるかしら?」
「え、マジ? それでいいの?」
昨日、喫茶店での会話。終わり際に、今度中古ショップでも巡ってだらだら話せたら楽しそうだなとか、そんな感じの話になった。いささか急には違いないが、それでこの騒動を収められるなら僕にとっては願ったり叶ったりで。
しかし、一つ。たった一つだけ、まずいところがあって。
「……明日?」
すず、再起動。動いたり止まったり忙しない奴だなと呆れたが、できれば今は不干渉のままでいて欲しかった。
「ねえ蓮、今オーケー出そうとしなかった?」
「ちゃっかり聞いてはいるのな……」
「おかしいでしょ。それはおかしいでしょ」
「……なにか?」
芦屋が問うと、すずは光の速さで懐からスマホを取り出し、日中ずっと続けていた僕とのメッセージのやり取りを芦屋に見せた。
「先約はわたしだもん」
確かに、話はまとまっていた。例の圧力鍋を買ったり、他にも服やら靴やらを明日見に行こうということになっていた。――しかし、しかしだ。
「悪いすず、埋め合わせは今度するから。……なんなら日曜にでも」
「わたしには他の女に使い古されたおさがり状態の蓮で我慢しろって?」
「もっと言い方なかった?」
処女厨の存在は有名だが、どうやらこの世には童貞厨もいるらしい。珍しいものを見たなとため息をつくのも束の間、芦屋からの発言があった。
「ごめんなさいね花柳さん。香月くんはどうしても私の方がいいみたいだから」
「はぁ? はぁ~~~~~~~~~~~?!」
「煽るなぁ君も……」
真っ赤になって地団太を踏むすずをどうにか宥めつつ、芦屋にも「勘弁してくれ」とお願いして、さてどうするかとようやく頭を悩ますフェーズに到達。どちらを優先しようにも、ほぼ確実に軋轢が生じる。二人に仲良くしてもらいたい僕の立場を思えば、それだけは絶対に避けたいところなのに。
「じゃんけんで勝った方というのは?」
「「ありえない」」
「午前午後で一人ずつというのは?」
「そんなのどう考えても午後狙いで殴り合いじゃない」
「殴り合いは勘弁してくれ……」
竜也の発言通りなら、爪が混じって流血沙汰だ。なんで僕を基点にして友人二人を血みどろの戦いに誘わなければいけないのだ。
さあ、ここからどうするべきか。僕は二秒くらい考え、もう完全にヤケクソで、一つの案を提示することになった。
「よしもうわかった。それじゃあ――」
当然バッシング。ブーイングの嵐が巻き起こる。しかしもう知らん。とっくにキャパシティオーバーだこっちは。
いつだか同様耳を塞いで、あれこれ言い合う二人を遠巻きに眺める。ああ、クソ、一体どうしてこうなった……。
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