第11話 花柳涼音とは1

 七時を回って帰宅すると、リビングの蛍光灯が煌々と照っていた。玄関に家族の靴はなく、しかしキッチンの方から良い匂いがする。シチュエーションとしてはホラーそのものだが、誰がそこにいるかわかっていれば恐れる必要もない。

 ダイニングとキッチンを仕切っている暖簾を持ち上げて中に入ると、そこにはいつも通り古くなってボロボロのエプロンを身に着けたすずの姿が。左手で菜箸を扱いながら右手で片手鍋をかしゃかしゃ動かす様子は所帯持ちと言われても違和感がなく、ついつい「おかん」と呼びかけたくなる。怒られるからやらないけれど。


「つまみ食い禁止」

「しないしない。なに作ってるか確かめにきただけ」

「野菜室にじゃがいもたくさんあったから煮っ転がしてる」

「お、うまそ」


 地に足のつきすぎたメニュー選びはとても同い年だとは思えないが、こと料理に関してすずは十年プレイヤーなので昨日今日主婦を始めたような若奥様なんかとは比べるだけ無駄だ。なんならウチの母親よりこいつの方が料理に対する意欲がある。まあ、家事としての料理と趣味としての料理ではまるで別物だということを頭に入れておく必要はあるが。

 一応の家主代理として客人にばかり仕事をさせてもいられないので、ブレザーとリュックとをリビングのソファに放り投げ、シャツの袖をまくり上げる。洗い物がいくらかたまっているから僕はそちらの片づけだ。


「主菜は魚?」

「グリルに鮭」

「そういやいつだったか冷凍してたっけ」


 蛇口から流れる水の音をBGMに会話する。すずは運動不足をこういうところで解消するつもりなのかつま先に体重をかけて踵を上げ下げしていて、そういう細かいところまで主婦っぽくて笑ってしまいそうになる。この歳になってもデフォルメされた笑顔のクマのキャラクターがプリントされた子供用のエプロンを使っている見境のなさも、主婦特有のもったいない精神の表れに見えた。

 じゃがいもの表面がいい具合に照ってきたのを確認して、すずが小さいのにかじりついた。その後、「んー」と首を捻り、残りをそのまま僕の方へ伸ばしてくる。お前も味見しろということなのだと合点して、口を開けた。


「わたしはもうちょっと濃いめの方がいいかなって思った」

「ひょい待ち」


 猫舌なので、はふはふとじゃがいもを口の中で躍らせる。たっぷり十秒使って冷まして舌にのせると、いい具合の甘じょっぱさが口内に満ちた。火もきちんと通っている。


「僕的にはこれでちょうどだな。ちょっと放っておけば程よく染みるんじゃないか?」

「じゃあこのままでいこっか。あと蓮、ここ」

「ん?」


 すずが人差し指で自分の口許を指さしている。なにを伝えたいのかよりもまず、僕はその絵面に着目してしまって。


「ぶりっ子の決めポーズみたいになってるぞ」

「なっ……! 違うから!」


 思わぬ指摘に頬を染めたすずは、気持ち強めに鍋をがたがた揺らした。本当だったら僕も真似して追撃するところなのだが、あいにく両手が塞がっていて決行不可。煽るためだけに顔に泡をくっつけたくはない。


「ああもう……。ほら、ここだって」

「ん」


 すずの細い指がつい、と伸びて、僕の唇の端に触れた。そのまま人差し指の腹でなにかが拭われる。


「なんかついてた」


 その指を舐めとりながらすずは言う。そういうの、背中がむず痒くなるからあんまりやらないんで欲しいんだけど……。


「本当についてたか?」

「嘘ついてどうすんのよ」

「どうにもならんな……」


 納得して、なんとなく二の腕で口まわりをこする。「シャツ汚れちゃうでしょ」「つい癖で」「そんな癖知らない」


 結局のところ、シャツに汚れやシミはつかなかった。高校生にもなって口許をべたべた汚すのは恥ずかしいことこの上ないので、今後改めていかなければと思う。

 

 すずがコンロの火を消すのと僕が洗い物を終えるのがほぼ同タイミングだった。「その菜箸どうする?」「盛り付けに使うしまだいいよ」「うぃ」とかなんとか適当にやり取りをして、たった今洗い立ての食器の水滴を布巾で取り払った。魚やら煮っ転がしやらを器用に取り分けるすずの傍ら、僕も炊飯器から米をよそっておく。そのうち帰ってくるだろう母さんのことを考慮して、ちょうどよく配分。電気代がもったいないので余りはタッパーに詰め、保温を解除。そういえばダイニングテーブルを拭いていなかったので、お盆に載せた茶碗はいったん放置して台拭きを揉みだす。テーブル上の埃を取り去って、すずの定位置になっている椅子を引き、一足早く僕だけ着座。


「お味噌汁だけインスタントだけど許してね」

「僕が文句を言える立場かよ」


 ここまでやってもらってケチをつけたらバチがあたること請け合い。すずとしては日常的にこの家に入り浸ることへの代価のつもりらしいのだが、別に今更そんな気を遣うこともないのになと思っている。もう、知らない仲ではないのだから。気障ったくなるから言えないけれど、僕も両親も半分以上こいつを家族だと認識しているのだ。

 ただ、仲を深めた弊害か、そういった内容を直截に言うのはどうしても憚られる。なので僕はこういう場合、意図して迂遠な物言いを用いている。


「インスタントと冷食を活用してこそ主婦って感じがしないか?」

「最近のインスタント美味しいもんね」

「楽に行こうぜ楽に」


 笑って、すずはエプロンを脱いで椅子の背もたれにかけた。たまに繕ってはいるのだが、それでもほつれや色落ちは日に日に酷くなっていく一方だ。前面にプリントされているクマに関しては、なんだかもうホラーチックな表情を浮かべるようになってしまったし。


「って、わたし主婦じゃないんだけど」

「反応遅いな。エプロンそんだけ使い古せるのは主婦の適性がある奴だよ」

「物持ちが良いって言って」

「それはそれで結構なんだけど、いい加減新調しないか?」

「うーん、でもなぁ……」

「愛着わいてるのはこっちも十分理解してるけど、既にだいぶぱっつんぱっつんだろ」

「…………性欲の」

「ちげえわ。このくだりまだやるつもりかお前」


 目を怪訝に細め、体を捻って僕の視線から逃れようとするすず。確かにクマの表情がおかしくなっている理由の一つには成長期にとみに育ってしまった胸部からの圧迫が挙げられるが、そもそもからして小学校高学年くらいで買ったものではサイズ感に無理が出て当たり前なのだ。


「すず、入学してすぐの身体測定で身長いくつだったか覚えてるか?」

「……一六九」

「あーあー違う違う。身長いじりするわけじゃないから不機嫌になるな」


 彼女は椅子を限界まで引いて僕から距離を取り、心理的な隔意を示してくる。大方デカいだの高いだの言われるのを嫌ったのだろうが、喧嘩しているわけでもないのにわざわざそんな意地悪はしない。僕はただ、比較用に数字が欲しかっただけだ。


「それ買ったの確か小五のときだろ? たぶんその頃お前の背は一四〇あるかないか。そこから三十センチ伸びてるんだからいよいよ無理があるんだって」

「でも……」

「なにも捨てろって言ってるわけじゃないんだよ。ただ、それはそろそろ思い出の品行き」

「…………」

「新しいのは僕持ちで見繕ってやるから」

「……じゃあ、ポケットいっぱいついてるやつがいい」

「急に感性が幼児退行したな。……なら、近いうちにデパートでも行くか。ゴールデンウィークも来ることだしさ」

「あ、あと圧力鍋欲しい。YouTubeで観たとろとろの角煮作りたい」

「一気に漂う生活感。……まあ、今は財布に余裕あるから安いやつだったらなんとかなるか」

 

 通販サイトをざっと眺めて、僕の懐事情でもなんとかなりそうでほっと一息。誰もの利益になる便利グッズなので、言えば母さんも半分くらいは出してくれるだろう。こいつが一回使っただけで満足して放置ってことはないだろうし、日頃の感謝と今後への投資って名目だと思えば悪い買い物ではない。それに、とろとろの角煮というワードに不意打ちで胃袋を刺激されてしまった。


「じゃあ今週末ね。ここ最近出不精だったから、他にも見たいものいっぱいあるけどいい?」

「好きなだけ見て回ってくれ。特に用事がないのは僕も一緒だ」


 一日中だらけてゲームするよりは、よほど有意義に時間を使えるだろう。「じゃあねじゃあね……」と夕食のことなんてすっかり忘れて予定を立て始めたすずを微笑ましく見守りながら、僕は頬杖をついた。

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