第8話 芦屋みやび観察記録2

 価値観や認識には個人差がある。たとえば芦屋は行先の喫茶店を駅前と言ったけれど、僕から見ればあそこはせいぜい駅近く。距離や時間といった尺度に関わる部分において、そういう理解のズレはしばしば生じる。これが頻発すると話していて疲れたり退屈になったりするのだが、芦屋と僕はそのあたりの感性が割と似通ったものだと思っていた。……まあ、距離感に多少の相違があったと前置いたうえで言うのもどうかとは思うけれど。


 軒先に立てかけられた『営業中』の手書きボードを確認して、古めかしい扉のノブを引いた。風鈴がカラカラと涼やかな音を鳴らし、それに遅れて「いらっしゃい」の声が響く。温和そうな老夫婦が二人で切り盛りする小さな店だ。客は同時に二十人も入らないだろうし、そもそもそれだけの人数が同時に押しかけるほど繁盛もしていない。いつ訪ねても客足はまばらで、冗談交じりに一度「僕以外のお客さんっているんですか?」と質問したこともある。メニューの金額は良心的で店内の雰囲気もかなり良く仕上がっているのだが、どうにも人気は出ないようだった。その原因の大半は大通りから一本逸れた場所という立地条件だと推測されるが、そんなことがわかっても人が来ないことに変わりはない。


「お、坊ちゃん。学校帰りかい?」


 カウンターで新聞とにらめっこしていたおじいさんが顔を上げて、僕に呼びかけた。僕は「もう坊ちゃんって歳でもないですって」と笑って、「奥の席大丈夫?」と問う。どうせ答えは決まっているので、返答を待たずに木製のテーブルへ鞄を置いた。年代物だが作りはしっかりしていて、軋んだりはしない。


「注文は?」

「ケーキセットをこの子に。僕はコーヒーだけで」


 おじいさんは「はぁい」と間延びした返事をして、その後、口調とは対照的なきびきびした動きでコーヒーを淹れ始める。一人で来るときはその様子を眺めながら彼と世間話をするのだが、同行者がいる今はそうもいかない。


「……もしかしてお財布厳しかった?」

「なんで?」

「コーヒーだけで済まそうとしてるみたいだから」

「ああ、違う違う。最近買い食いし過ぎてデブまっしぐらだから自制してるだけ」


 四月になってからというもの、放課後に誰かと軽食してから普通に夕飯を食べるという流れが続いているせいか、体重が増加傾向にあった。とはいってもまだ一キロ増えたか増えないかくらいだが、運動の習慣がないので一度ついた肉はなかなか落ちない。早い段階で危機意識を持つに越したことはないと思う。

 

「……ふふ、坊ちゃん」

「君、前もそれで笑ったろ」

「言われてみたら確かに、香月くんは良い家の坊ちゃんに見えなくもないかも」

「どこが?」

「口調とか。結構乱暴な言葉も使うのに一人称が僕なの、ご両親がそういう方針だったのかなって」

「これは祖父仕込み」


 僕が小学校に入学するかしないかという時期に、田舎からはるばるやってきた祖父と二人で出かけたことがあった。街をぶらつきながらときおり彼が口にする「僕」という言葉の響きが妙に魅力的で、それ以来影響されてしまっている。かなり昔の出来事なのに未だにはっきり覚えているのだから、印象的な記憶だったのだろう。


「おじいちゃん子だったんだ」

「言われてみればそうかもしれない。まあ、会うのは年に一度くらいだけど。そういえばそもそも昔、僕をこの喫茶店に連れて来たのもじいちゃんだし」


 お出かけの最中、お腹が減ったなと言って、手近な店にふらりと立ち寄った。それがここだった。老夫婦はその頃からやはり老夫婦で、孫ほど歳の離れた僕を坊ちゃんと可愛がって色々サービスをしてくれたと記憶している。当時もらった木製のミニカーは、今も僕の勉強机に飾られたままだ。


「本当に坊ちゃんだった頃からのお付き合いなのね」

「そろそろ十年経つくらいかな」

「そんなに」


 当時飲めなかったコーヒーに砂糖をだばだば入れて挑戦したのが十歳くらい。中学生にもなると味覚が変わってきたのかブラックでも平気になって、「大人になったねぇ」なんてむず痒い褒誉を受けた。僕の成長はこの店と共にあったと言って過言じゃない。

 そんな大切な場所だから、連れて来る相手は選ぶ。芦屋は、すずと竜也に続いて三人目だ。


「はい、お待ちどお。ケーキは裏で家内が用意してるからもう少しかかるよ」

「ありがとう」

「砂糖は良いのかい?」

「それはとっくに卒業したから。芦屋も大丈夫だよな?」

「私はブラックで平気。……ん、美味しいです」


 香りのいいブレンドを一口飲んで、芦屋は言った。おじいさんはたいそう嬉しそうに笑って、「そうかい」と何度も頷く。店員にガンガン来られるのを嫌う人種には合わないのだろうが、僕はこの店のアットホームな空気感が好きだった。それこそ、家のようにくつろげる場所だと思っている。


「んん……?」

「どうしたのおじいさん?」

「なんだ、なんと言ったか。あの、坊ちゃんにべったりだった女の子」

「涼音のこと?」

「そうだ。涼音ちゃんだ」


 彼は視力に難があって、ものをはっきり見ようとすると眉間をきゅっと寄せた険しい顔つきになる。今がそう。もしかしたら前に一度芦屋を連れて来たときはすずだと勘違いをしていたのかもしれない。

 おじいさんは、近くから芦屋の顔をよく見て、次いで僕の方を向き、言う。


「坊ちゃんも罪作りな人になったねぇ……」

「盛大な勘違いの匂いがする」

「ガールフレンドを何人もこしらえて……」

「イマイチ否定しにくい物言いで参るな……」


 一定以上の世代が言う『ガールフレンド』って単語に、その単語を直訳した以上のニュアンスが付与されるのは知っている。だがしかし、額面通り受け取ってしまえばただの女友達。なにもまちがってはいないせいで過剰な反応を示すのもどうかと思ってしまう。

 けれど彼の態度を見るに、斜め上の理解をしてしまっているのはほぼ確実で。


「何人も……?」

「ほらここにも勘違いしてる奴がいる」

「香月くん、何人もって?」

「言葉の綾。日本語の妙。少なくとも、この店教えたのはすずと君だけだっての」

「少なくとも……?」

「日本語~~」


 無駄な修飾語がまた新たなる誤解を呼ぶ。結局、両者の認識を改めるだけで二十分近い時間を要した。

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