第7話 芦屋みやび観察記録1

 思春期真っただ中であるところの中学生高校生という生き物は、恋愛に対する嗅覚が他の世代と比較して頭一つ抜けている。鮫が海に溶けた血液一滴を嗅ぎつけるがごとく、少しでも色恋の気配を感じた瞬間にあちらからこちらからわらわらと湧き出てくるのだ。

 どちらかと言うと僕は、その手合いに迷惑をかけられる側だった。すずと下校しているのを目ざとく見つけた連中に質問責めされ、同様の目にあったすずの対人恐怖症はますます加速し、しまいには学校に関係する場所で話すことがなくなった。物見遊山、悪気なしの興味本位。それら全て承知の上だが、他人の心の内側に土足で踏み入るという行為のなんたるかをほとんど誰も理解していなかったことに、僕はおおいに絶望した。しかもそういう奴らに限って、話題の旬が過ぎ去ったらなにごともなく全てを忘れていくものだから手に負えない。いつだって銃口を向けるのは自分の特権だと考えていて、誰かに撃たれることなど頭の片隅にもない。僕はそういった野次馬根性の塊みたいな連中をオブラート数千枚でくるんで「馬鹿ども」と呼称しているのだが、馬鹿になり得る種が自分の中に植えられていることにも気づいていて、表立った批判はしないように努めていた。いつだって、明日は我が身だ。かつて嘲った存在に一夜のうちに変貌してしまう可能性は否定できない。


 そしてまさに今、その可能性とやらが僕の目の前に顔を出していた。色恋沙汰の匂いが、僕の鼻腔を不穏に満たしていた。自分の思い至らなさに頭が痛くなって、そのまま目の前の建物の壁面に背中を預ける。少し離れたところには男女が一人ずつ立っていて、その片方は芦屋みやび。現在時間は放課後。現在地点は旧図書室近くの武道場外周。芦屋と話す時間を作ろうと思っていたら彼女はホームルームが終わると早々に教室を出て行ったので、てっきり図書室に用があるものだと早合点して後を追った。そうしたらこれだ。風の噂に聞いたことだが、どうにもここらへんは人通りの少なさを理由に告白スポットとして重宝されているらしい。僕には縁遠い場所だと気にも留めていなかったが、そのツケを今払わされる形になってしまった。


「そういうことだよなぁ……」


 姿を見られるわけにはいかないのでスマホのインカメラで視野を拡張し、なにやら話す二人の姿を視界に収める。ストーカーみたいで気持ち悪いなと自嘲して、これ以上プライバシーを侵さないよう音を殺してその場から去る。――はずだったのだが。


「おいおいおいおい……!」


 接近してくる新たな男女が一組。人気のなさは、告白しようと目論む生徒だけを助けるわけではないらしい。考えれば、日常の中でちょっとしたスリルを味わいながら逢引きするのにここはぴったりだ。しかしどうしたものか。神聖な学び舎どうこうはこの際捨て置くとして、今の状況はよろしくない。結果がどうなるにしろ、芦屋に対する一世一代の告白が誰かの邪魔で打ち切られたらあの男子生徒の魂が浮かばれない。それも、現行でいちゃついているカップルのせいだとしたらなおさら。僕は彼となんの繋がりも持っていないが、その勇気には敬意を払いたい。――となれば、僕がするべきは。


 カップルはお互いしか目に映っていないようで、なにやら睦言を囁き合いながら僕の方へ接近してきた。これからなにが始まるかは知る由もないけれど、残念ながら僕は今回彼らの意思を尊重できない。進路を妨害する形で道の中央に立ち、両の人差し指を交差させてバツ印を作る。どんな使命感に駆られているのか自分でもわからないが、ここは意地でも堅守しようという気概に溢れていた。

 それだけやれば、さすがに向こうも気づく。不思議そうに僕の目と指とを交互に見比べ、男の方が「見張り番?」と問うてきた。この状況で会話できるとかメンタルどうなってんだと慄きつつも、「その見方で概ねまちがいないです」とはっきりしない肯定を示す。敬語なのはおそらく相手が先輩だから。中学からの持ち上がりでもなければ、入学から一ヵ月と経っていない一年生カップルにここまでの貫禄は出せないと思う。


「だから、今日のところはお帰りいただけると」

「……いや、そうでもないな」

「はい……?」


 疑問符を浮かべる僕の横を、誰かが走り抜けていった。後ろ姿から察するに彼は芦屋を呼びつけた男子で、結果の如何はその態度が如実に示している。南無。

 僕としては、一応彼の尊厳の一部は守った形になるので職務満了。しかしながらまだ後ろに芦屋がいるのは明らかで、やはり彼らを通すわけにもいかない。どう言ったものかと悩んでいると、向こうが勝手に回れ右した。


「白けた。お疲れ、見張り少年」

「……どうも」

「まだそっちに誰かいんだろ?」

「その可能性が高いとされてますね」

「はは、なんだそれ」


 後ろ向きに乱雑に手を振って、上級生と思われるカップルは去っていった。こうなればいよいよ僕にも長居の必要性は消え、一も二もなく教室への帰還が求められるのだけど。……まあ、そうはいかなくて。


「違うんだ……と言いたいところなんだけど、正直全然言い訳できる材料がないな」


 彼らがいなくなるのと同じくして、奥からひょっこり芦屋が顔を出した。話し声は届いていたのだろうから当たり前だ。当然無視できようはずもなく、僕はあれこれ言葉を並べる。


「完全に出歯亀だった。気を悪くしたらすまない」

「……聞いた?」

「なにを?」

「……なら、大丈夫か」


 芦屋は独りごちて、前を先行して歩き出した。どうするべきか悩んだものの、僕もその数歩後ろを追う。


「覗きなんて、香月くんらしくないと思うけど」

「僕もそう思う」

「じゃあなんで?」

「状況説明したら言い訳がましくなって嫌だな……」

「説明責任」

「……てっきり芦屋が図書室に行くものだと思ってついて行ったらこの有様に」

「一声かけてくれればよかったのに」

「だよな。最近、そういう後悔ばっかりだ」


 どうにも物事を近視眼的に見てしまっているきらいがあって、どこかで一度戒めなければならなさそうだった。俯瞰的にとはいかないまでも、そうした結果なにが起こるかくらいは想定しておかなければならない。連日のゴタゴタで、僕も内心結構参っているのかも。


「あの男子は知り合い?」

「気になる?」

「気まずさを紛らわすための場つなぎの意味が大きい」

「そういうところ本当に正直ね。……確か、委員会の先輩だったと思う」

「思うとは」

「話したことはなくて。ただ、一目ぼれしたからよければ連絡先教えて欲しいって」

「昨今稀に見る実直な青年だな。ここまできたらやぶれかぶれに付き合ってくれって頼みそうなものを」

「……どう答えたか知りたい?」

「見ればわかるよ。僕でもさ」


 連絡先すら教えてもらえないのは玉砕レベルがなかなか高い。せめて失恋を上手く昇華できますようにと名前も知らない彼に祈りを捧げて、芦屋の横に並んだ。前後では話しにくい。彼女は「そう……知りたくない。知りたくないんだ……」と俯き加減にぼそぼそ呟いて、長い髪を手櫛で梳いた。そのしぐさがなんとなくフェティッシュで色っぽく、僕はそこから目を逸らした。


「ああいうの、結構多いのか?」

「高校になってからは初めて。小学校と中学校も数えたらまあまあ」

「まあまあって言えるのがすごいな……」

「……でも、期せずして私が清純である旨の証明にはなったかしら。男漁りに邁進しているわけではないって」

「清純な子はさらっと男漁りなんて単語を使わない気がするなぁ」


 芦屋はわざとらしく、ハッとしたように口元を手で覆い隠した。今さら遅いよと応戦してもよかったが、覗きの言葉になんの重みもないことに気づいて口を噤む。


「それで、私の後についてきたってことはなにか用事があるのよね?」

「あー、うん。話したいこと色々あるから、これから時間取れるかって聞きたくて」

「取ってあげてもいいけど、平然と覗きをした人を許すかと言われたらそれは別問題よね?」

「……なにをご所望で」

「香月君のど」


 uの音が聞こえるか聞こえないかくらいのところで、強引に口を塞いだ。やっぱり最近の僕は迂闊極まりない。芦屋は、こういう条件でもぶっこんで来る奴だって昨日知ったはずなのに。

 

「そこまで要求されるなら、別に僕は許してもらえないままでいい」

「開き直り?」

「そう」

「じゃあ、駅前の喫茶店の新作ケーキでどう?」

「……悪いな、本当は妥協を引っ張り出せるような立場じゃないのに」

「いいわ。会話の流れでゆっくりできる場所へ連れ込む算段だから」

「なにがいいのか一ミリもわかんねえんだよなぁ」

「……? 図書館のことだけど」

「そんな時間になったら閉まってるわ。もう誘導から僕が自爆する手は食わない」

「残念」


 芦屋は笑って、軽い足取りで教室の方へ進んでいった。変な噂が立ってもまずいから、僕はしばらくしてから戻ろう。

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