第5話 香月蓮の日常。

 誰かと連れ立って帰るテンションではなかった。

 いつもであれば竜也なり芦屋なりを誘って、時に寄り道を挟みつつもだらだら帰り道を行くのだが、久々に誰にも声をかけず学校を出た。無駄話も寄り道もない帰路は驚くほどに短くて、二十分とかからずに自宅マンションまでたどり着いた。

 

「ただいまー」


 返事はない。いつものことだ。母親は働きに出ているので、おかえりなさいを言うのは基本的に僕の方。

 ただ、返事がないからこの家が無人かと問われると、それもまた違う。


「おいコラ病人」

「あ、おかえりー」


 臆面もなく僕の部屋に侵入し、だらしない格好で堂々と部屋の中央に寝っ転がっている女が一人。そりゃあいるだろうなとは思っていたが、腹にクッションを敷いて平日昼間からゲーム三昧とはいいご身分だ。

 僕はすずの頭に脱いだブレザーをかけて、視界を塞ぐ。そうすることで、彼女はようやく体を起こした。


「なによぅ」

「なによぅじゃないんだよ。今日くらいは自分のベッドで寝ておけ」

「負けちゃったじゃない」

「オフラインなのは確認済み」

 

 オンラインゲームの邪魔は殺意以上の感情が湧くのでさすがにしない。前に一度、それで大きめのケンカに発展した過去がある。

 彼女が払いのけたブレザーを拾ってハンガーにかけ、手際よく部屋着に着替える。女子のいる部屋で下着姿になるのはどうなんだという話だが、わざわざ廊下に出るのは面倒だしちょっと出ていけと言ったところですずも動かない。それに、今さらそういうことを気にする方が恥ずかしいのでは? という空気感が僕らの間に醸成されているのもある。


「体調は?」

「へーき」

「あー。まあ大丈夫か」


 芦屋とあれやこれやと言い合って、突然ふらっと倒れたときはさすがの僕も心臓が止まりかけた。体は焼けるように熱くて、急遽芦屋には帰ってもらう運びになったのだ。

 今額を触った感じだと、熱自体は問題がなさそうだ。昨晩の段階で落ち着いたのは確認済みだったけれど、万が一ということがあるから。

 

「……あの女の匂いする」

「こえーよ犬じゃないんだから。それに着替えてるんだから消えてるっての」

「今日も会ったことは否定しないと」

「昨日あれだけあったんだから、説明することがたくさん」

「……あんた、結局どういうつもりで連れてきたのよ。わたしがどうなるかくらい、想像ついたでしょ」


 クローゼットから勝手に引っ張り出したのだろうぶかぶかのシャツの裾が、僕の太もも付近に触れた。そこで止まってくれればいいのに、女の子座りのすずはそのまま僕の方へ体重を預けて、ぴたりとくっつく。ゲームをプレイする手は止まっておらず、肘がちょくちょく脇腹に刺さる。


「僕の知っている限り、芦屋は物静かな奴だったんだよ」

「ふぅん」

「ゲームとか漫画とかにも造詣が深いし、お前とも話が合うんじゃないかって思ってたんだ」

「物静かじゃなかったし、話はまるで合わなかったけど?」

「完全な誤算なんだよなぁ……」

「それどころか、言ってることめちゃくちゃだった。聞いた感じ、ずいぶんとたらしこんだみたいじゃない」

「僕も昨日が初耳なんだって」


 事態があれこれ絡み合って、どこから解いていけばいいかわからなくなっている。あちらを立てればこちらが立たずとはよく言ったもので、一つ説明するごとに他の疑問が二つ三つと膨れていく予感があった。


「僕の考えが上手く実れば、趣味の合う友達が一人お前にできるはずだったんだ」

「欲しいなんて言ってないもん」

「だとしてもだ。僕じゃ乗っかれない話だってあるだろ」


 オーバーサイズのシャツに中学時代のハーフパンツジャージを合わせている今の姿からは信じられないが、すずはこれでなかなかおしゃれさんだったりする。たまに持ち込んだファッション誌を読み込んでいるし、僕を伴って服の買い出しに行くこともしばしば。緊張してしまって店員と話ができないから、僕が通訳してやらないといけないのだ。

 しかし、ファッションや身だしなみといったものに微塵も興味がない僕みたいな人間では、そっち方面のトークにまるで付いていけない。竜也がいればどうにかなるんだけど、すずと竜也はあくまで僕を介した繋がりしかなくて、二人きりで話が弾むかと言われたらそうではない。やはり、必要なのは趣味嗜好に理解のある同性の友人。

 芦屋ならきっとすずと仲良くしてくれるだろうって、僕は欠片の疑いも持っていなかったのだけど……。


「上手くいかないもんだな……」


 腕を組んで、ため息。サプライズのはずが大惨事で、二人に大きな負担を強いた。友達の友達ならハードル低めで友情を結べるだろうなどという早計な考えは、金輪際持たないことにする。

 でも……。


「……お前が他の誰かと平気で会話するのなんて、いつぶりだろうな」

「平気じゃないからストレスで熱出したんだけど」

「目を合わせて、どもってもいなかった。……怒ると思うけど、正直ちょっとうれしさはあったんだよ」


 血の気が引いた真っ青な顔。がたがたと定まらない震え声。ここ数年、僕はすずのそんな姿を見てばかりだった。だから昨日はヘルプに入る努力をせず、ぼんやりと経過を眺めるだけにとどめたのだ。もしかしたらすずが己の殻を破る大きなきっかけになるかもしれないと、本気で思っていた。たとえ僕が思い描いていた形と違くてもよかった。


「……あの女、結局何者なの?」

「芦屋みやび。クラスメイト」

「ずいぶん綺麗な顔をしてたけど、美人局じゃないの?」

「僕に失って困るような社会的地位や財産はないだろ」

「美人って自分に見合う格の男とつるむんでしょ?」

「漫画の読み過ぎだ。それを言ったら――」


 続きを言いそうになって、慌ててブレーキをかけた。そんな僕を不思議がるすずは「それを言ったら?」と催促をしてきて、苦し紛れに「社会が成り立たなくなる」ともっともらしいことを言ってごまかす。


 それを言ったら、お前はどうなる。飲みこんだ言葉はこれだった。男子として平均的な僕とそう変わらないすらっとした背丈に、ふわふわのボブカット。インドア派なのが大きく作用しているのか肌は雪のように白く、顔のパーツ配置には文句のつけようがない。ここにいるときだけヘアピンで前髪を上げるのだが、どこでもそのままでいるべきだとずっと思っている。

 僕の評価では、こいつのルックスは芦屋と大差ないのだ。本来ならもっと、人の目を惹いてしかるべきなのに。いくらでも青春を謳歌できるはずなのに。……ただの一点、人の視線が怖くて仕方ないという特質のせいでそれらすべてが台無しになってしまうのが、やるせなかった。


「って、さりげに僕じゃ格落ちだってディスってなかったか今」

「じゃあ聞くけど、つり合い取れてると思う?」

「それは思わないけど」

「でしょ? 蓮はするめ人間だから、長く付き合わないと良さなんてわかんないもん」

「なに、噛めば噛むほど味が出るって話?」

「そういう話。たとえばその馬鹿みたいに世話焼きなところとか、合わない人だったらうざいって一蹴されて終わりだし」

「お前が特別手のかかる奴ってだけなんだが」

「あんたねぇ、人がせっかく褒めてあげようってときに水差さないでよ」

「下げてから上げるな。僕は褒められ続けて伸びるタイプだ」

「偏屈~」

「理知的と言え」


 なおもがすがすと刺さり続ける肘に対抗して、彼女の薄っぺらなあばらを裏拳で叩いた。よくもまあこのだらけきった生活で贅肉がつかないものだと感心しながら、腕をそのまま上へとスライドして顎へ。


「ひょっとぉ」

「この状態で勝てれば無敵だろ」

「酔う~」


 生産性のない口げんかを続けるのも乙なものだったが、何百回何千回と繰り返してきたので食傷気味でもある。言い合いの末に折れるのは基本的に僕なので、途中でなあなあにしてしまうのが吉だ。こいつ、形勢不利と見るやためらいなく泣き落としを使ってくるし。

 腕を小刻みに振動させることですずの首から上を揺らして、ゲームプレイの快適性を数ランク損なわせた。しかし器用なもので、彼女はそれに構わず淡々とコントローラを操作し続ける。


「意外といけるもん?」

「超酔うけど感覚でなんとかなるかも」

「貸してみ」

「ん」


 主題は逸れて、ゲーマーとしての探求心のようなものが顔を出し始めた。すずからコントローラを受け取って、彼女のプレイ状況から引き継いでCPUとの対戦ゲームを始める。頼まずとも僕の顎はがくがく揺すられ、視線には安定感のあの字もない。


「あー、あれだ。車の後部座席で本読んでる感じ。三十分くらい続けたら絶対吐く」

「ががががー」

「そこまで行くと天変地異だろ」


 猿かコアラかといった調子で僕の上半身にしがみつき、前後左右に揺さぶりをかけてくるすず。最初は堪えてみたものの、じきに脚が攣りかけたのであとは流れに任せて振り回された。当然、ゲームどころではない。画面を追えるような状態でなかったというのももちろんだし、それ以外にもノイズがあった。


「お前さぁ……」

「んー?」

「だらしないからちゃんとしろ」


 昨日の今日でこれだもんなぁとため息。だぼっとしたシャツは首回りに隙間があって、そこから淡い桃色の布地がちらちら覗く。そもそもしがみつかれているから件の布が覆い隠している本家本元の感触もむにゅむにゅ腕へ伝わってくるのだが、口に出したら負けな気がする。本人が言ったわけではないけれど、すずは背丈や胸周りの発育が明らかに平均以上なのをコンプレックスに感じている節があって、そこに触れられるのを嫌がる。どうにも小さいものへの憧れがあるらしい。小中の間長らくは僕よりすずの背の方が高く、「ヒール履きたいからもっと大きくなってよ」と文句を言われたこともあった。「お前がデカすぎるからちょっと縮んでくれ」と言ったら大泣きされて、ご機嫌取りに腐心した。中三半ばにようやく追い越したものの、まだ差は三センチあるかないか。ヒールでかさましされたら彼女には勝てない。


「…………」

「無言で距離取るな傷つくから」


 僕の言わんとしたところを察したのか、すずは両腕で自分の上半身をかき抱きながら後退。無意識でべたべたしてくるのが最高にタチが悪いのだけど、全ては『慣れ』の一言を前に完封される。肌に柔らかさが増し、胸が膨れる前からこのスタイルで、僕も彼女も、今さらそれをなしにできない。変に離れる方がお互い意識しているようでかえって恥ずかしい。


「……前まではちょうどいいサイズだったんだもん」

「似たような背になったんだから、首回りゆるめの男物シャツ着たら胸元だるだるになっちゃうだろ」

「あんたが見なければ済む話じゃん」

「それができないからお願いしてるんだろうが」

「…………」

「だから距離を取るな」

「性欲の……化身」

「まーた悪い言葉を覚えちまった……」


 すずは良くも悪くも人の影響を受けやすい。僕と付き合うようになるまではゲームも漫画もアニメもさっぱりだった。ただ、根が素直なので布教したらあっさりハマる。気づいたら口癖が移ったりする。


「僕はただ、淑女として慎みのある装いをしようなってたしなめてるだけなんだが」

「暑いもん」

「まだ四月だっての」


 近くにいるとわかりやすいが、すずは体温が高い。平熱が優に三十七度を超えていて、寝込むとなると四十度近く出すのが当たり前。薄着なのは排熱の意味合いが大きい。だからと言って、肩だの太ももだのを躊躇なく晒していくのはどうなんだという思いはあるけれど。

 

「そもそも下着の上へダイレクトで僕のシャツ着てるって状態が意味不明なんだわ。どんな格好で仕切り越えてきたんだお前」

「なっ、なに考えてんの! これは前借りてたやつ洗濯して着てきただけ!」

「洗濯物に覚えのない男の服が混ざるの、お母さんから見たらとんでもないホラーだろ」

「ちゃんと言ってるもん。『蓮の服だよ』って」

「『はいそうかい』ってならないんだよ普通はさ」


 勝手に僕の洋服を花柳家との共有財産扱いにしないで欲しい。っていうか、洗ったのならまた着ないでそのまま返せばいいのでは。


「心配しなくても、蓮の服が混じってるときは柔軟剤多めに入れてもらってるから」

「それを配慮や気遣いだと思ってるお前の感性どうなってんだ」

「でもいい匂いしない?」

 

 すずはちょっと考えるような素振りを見せたあと膝立ちになって、腹部の布を引っ張る形で僕の鼻に押し当てた。僕を性欲の化身認定しているのなら絶対やってはいけないことトップ3くらいには入ってくる奇行だが、突っ込みきれないので流す。


「するけども」

「でしょ?」

「……するけども、だ」


 果たしてこれが洗剤や柔軟剤だけの香りかと問われても、僕にそれを肯定する手立てはなかった。ぶっちゃけどう考えても彼女の体臭が混入していて、評価に困る。服単体での批評が不可能。そんなことをしているせいでちらちらへそが見えているし、ツッコミどころが指数関数的に増えて追いつかない。


「けども?」

「一旦保留。ほら、襟ちゃんと直して」


 肩紐が隠れるよう整えて、なんで僕がこんなことをやっているのだと脳天へ軽くチョップ。重要書類の保護者欄に『香月蓮』の名前を書き足しておいて欲しいくらいだ。こんなのもうほとんど子育てだろ……。


「今日はこういう話になる予定じゃなかったんだけどな……」

「じゃあどうなるはずだったのよ?」

「伺いを立てておこうと思って」


 ベッドの側面に体重を預ける。僕にならってすずも同じ体勢になり、斜め上の天井をぼうっと見上げながらの会話になった。


「芦屋とお前とが仲良くなれる可能性、何パーセントあるよ。概算でいいから教えてくれ」

「ゼロパー。無理でしょ」

「即答かよ……」

「わたし、エッチな話苦手だもん」

「至極真っ当な理由でなにひとつ責めらんねえ……」


 なんとなく嫌いだと言うのなら「待て待て」とたしなめられよう。陽の属性持ちが無理だと言うなら「向こうはサブカルにかなりの理解があるぞ」と庇えよう。ただ下ネタどうこうになると、さすがにこれは分が悪い。なんなら僕自身、芦屋と関わることで純朴そのものなすずが淫語をためらいなく発する怪物になってしまう可能性に怯えている。こいつは朱に交わるのが早すぎるから。


「それに、事情が事情だし」

「……お前もそれかよ」

「向こうも言ってたの?」

「似たようなことをな」


 ずいぶん前途は多難らしい。僕が作った甘ったるい目論見のツケを払い終えるのはいつになるかと考えて、マットレスに頭を沈めた。

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