第2話 香月蓮は思い返す。
入学式から何日か経った日のことだった。その前日に夜を徹してマリオカートに励んでいた僕は、帰りのホームルームを終え、イヤホンを装着してお気に入りの音楽を流し、さあ帰ろうと立ち上がる直前に力尽きた。強烈過ぎる眠気に負けて、机に突っ伏して眠ってしまったのだ。その音楽というのがいつも睡眠前にかけている曲で、それが悪い刷り込みになっていたのもあったのだろう。とにかく僕は誰からも邪魔されずにすやすやと入眠して、二時間たっぷり体を休めてからようやくのこと目を覚ました。不自然な体勢で眠っていたせいもあってか腰が痛み、そしてその痛みのせいで、イヤホンジャックが外れていることに気が付かなかった。
「…………あ」
スマホから周囲へ垂れ流される邦ロック。僕が一番好きなバンドの、メジャーデビュー曲。そのイントロからガツンと決まる特徴的なギターソロに反応して、こちらへ振り向いた生徒が一人。
彼女は、まあ彼女という三人称からもわかる通りに、女子だった。名前は、芦屋みやび。同じ高校生とは思えないような大人びた美貌で、発足して間もないクラスで即座に中心人物になった生徒。これまでに交わした言葉は朝のあいさつくらいで、接点と呼べるほどの接点はない。
「あ、ごめん」
咄嗟に謝る。成績も優秀らしい彼女は、放課後も学校に居残って授業の予習復習に取り組んでいる様子だった。徹夜でゲームをして疲れて眠った自分とはえらい違いだ。
せっかくの集中状態に水を差したことを申し訳なく思いながら、僕はそそくさと教室から立ち去る段取りをつけた。教室にはもう僕と彼女しかいなかったから、自分というノイズさえいなくなればよほど捗るだろう。――そう思って、椅子を引くと。
「これ、わかる?」
いつの間にか僕の机に近寄ってきていた彼女の手には、化粧ポーチが握られていた。無論、男子である僕にコスメやブランド品のことがわかるはずもなく、最初はどういうことだと首を傾げた。
しかししばらくして彼女が見せたかったのはポーチ本体やその中身ではなかったということに気づき、僕は慌ててリュックサックを机の上に置いた。側面のポケットのファスナー、そこに結んだ水色の安っぽいリストバンドを引っ張って、芦屋に見せる。それは、彼女のポーチにくっついているのと同じものだった。
「去年の夏フェス、僕、現地にいたんだよ」
「お目当ては?」
この状況において、口頭での回答などもはや野暮。僕はさきほど慌てて止めた曲を、サビのあたりからもう一度流した。
「――やっぱり」
言って、芦屋はぱぁっと花が咲くように笑った。僕たち二人が大事に取っておいたリストバンドは、夏場になると頻繁に開催される音楽フェスの入場証。
「『paraguas』だ」
意味は、スペイン語で雨傘。それは曲名でもあり、バンド名でもあった。今から五年ほど前のメジャーデビュー時に、一つの節目としてとりわけ力を込めて作詞作曲された彼らの代表曲。昨夏の野外フェスで演奏された楽曲。
「ずっと気持ちよく晴れてたのに、あのバンドの順番になった途端、ゲリラ豪雨が来てさ」
「それでもまるで気にせず歌ってたわよね」
「そうそう。さすが全員雨男だなぁって感動したね」
「生でそれを見ることになるとは思わなかったけど」
バンド名の由来に関する逸話を説明せずとも会話が成立する。それが心地よかった。paraguasは好き嫌いのはっきり分かれるバンドで、その独特な詩が僕にはがっちりハマったのだけれど、たとえば中学時代の友人なんかは全員反応が微妙だった。お隣さんのすずも嫌いではないが好きでもないといった具合で、これまで身近に話の合う人間が一人もいなかったのだ。
「芦屋さんはいつぐらいから追っかけてるの? フェスまで行くぐらいだから結構なファンだよね」
「サードシングルが発売されたあたりだったかしら。たまたまラジオで聴いて、興味を持って」
「あー、僕もその頃だ。観てたアニメとタイアップしててさ」
同好の士をたまたま発見できた高揚感から、僕のオタクとしての本能に火が灯ってしまった。やれどの曲が一番好きだの、やれ理想のセットリストはこうだの、夕暮れどき、二人きりの教室で、切れ間なく延々と語る。芦屋もそれについてきてくれたものだから、余計に昂った。
しかし忌々しい完全下校時刻とやらが、その至福の時間に水を差してきた。強制退去を促すチャイムが学内に響き渡り、僕らは帰宅を余儀なくされたのだ。しかし、一時間やそこらでこれまでため込んできた大量の話題を使い果たせるわけもなく、僕は激烈に重たい消化不良感に襲われた。語りたがりのオタクとして、せっかく見つけた同志をみすみす見逃すなんて言語道断。
だから僕は勢い任せに、後先考えず突っ走った。
「芦屋さんちって門限ある? もし大丈夫だったら喫茶店とかファストフード屋とかで続き話さない?」
思い返せばナンパ以外の何物でもないのだが、当時の僕からしてみればそれは至極真っ当で当然の行動だった。相手が女子だとか、それも美少女だとか、そういった条件などどうでもよくなっていたのだ。相手がどんな人物だろうと、僕は同じことをしたと思う。それはまちがいない。
「良ければ、ぜひ」
「よーし。じゃあ駅の方まで――」
提案を好意的に受け取ってもらったのもあって、僕は上機嫌で学校を後にした。目的地への道中も語り、目的地についてからももちろん語り、当たり前のように連絡先を交換して、最高の気分のまま帰宅する頃には時刻は九時に迫っていた。徹夜で寝不足だったはずの頭はいつの間にか冴えていて、いつものように僕の部屋で待っていたすずには「なんか怖いんだけど」と気味悪がられた。ただ、そんな声はどうでもよかった。僕は『また明日』と教えてもらったばかりのチャットアプリに打ち込んで、ベッドに寝転ぶ。一日で、世界が劇的に輝き始める感覚があって、心臓がバクバク跳ねた。……おそらくそれは睡眠不足からくる肉体の軋みだったのだけれど。
「良いことでもあったの?」
「クラスに同じバンドを追っかけてる奴がいたんだ」
「へぇ、よかったじゃない。じゃあ今までどっかで話しこんでた感じ?」
「その感じ」
うつぶせの頭にゲームのコントローラをぐいぐい押し当てられて、僕は顔を上げた。なにを隠そう前日の徹夜は突如開幕された『どっちが先に五連勝できるか大会』の弊害だったのだが、僕とすずとのゲームセンスはどっこいどっこいなので中々決着がつかなかったのだ。三連勝まではできるけれど、その先が苦しい。どうやら対決は昨晩限りではないらしく、僕は脳内麻薬がどばどば分泌された状態で、彼女からコントローラを受け取った。今の気分ならなんでもできると意気込んで、そのテンションでストレート負けを喫した。さすがに手元が覚束なかった。
「ちょっと無理だったわ……」
「あー、今横になったら次起きるの絶対朝じゃない。無理にでもお風呂入っときなさいよ」
「うぃーす……」
ありがたいお小言をもらって脱衣所へ行く。こういうところがもう一人の母親たる由縁なのだが、おふざけ半分で「おかん」と呼ぶと怒るのでその呼び名を使うのは喧嘩したときだけ。
僕は疲労感を全身に滲ませながらも、最高の気分で湯船に浸った。明日の学校を楽しみに待つ感覚など小学生ぶりで、柄にもなくドキドキした。話したいことはまだいくらでも残っているから、次はどんな話題を持ち出そうか――
とにかく、この時点において僕の高校生活は順風満帆と言ってよかった。……だって、芦屋が淫語を口にし出す前だったのだから。
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