第6話 温泉
「彦五郎様、お起きになられてますか?」
襖の外から源兵衛が話しかけてくる。おそらく稽古のお誘いだ。まだ外は暗いはずだろう。相変わらずのスパルタである。ただ、どちらにしても断ることはできない。寝ていても起こされるだけだ。
「ああ、起きておる」
「では稽古を始めますぞ。まずは走り込みからにございます」
この走り込みが厄介なのだ。何せ走り込むのは山か砂浜のどちらかである。いや、主に山だ。それも舗装されてない色々と生い茂っている山。
それを子供に走らせようと言うのだから、この源兵衛という男は鬼だ。鬼以外の何者でもない。ただ、強くなることには反対ではないんだ。俺だって男の子だし。
だがやっぱりこう思う。はやく刀を振らせてくれ、と。いつまで経っても走り込みと木刀での素振りだ。いつになったら本物の刀を手にすることができるのやら。
そして走り込みが終わると朝餉だ。稗と粟の混ざった玄米の湯漬けと梅干しだけである。やはり塩冶は裕福ではないらしい。
となると、食料を自らの手で手に入れるしかないだろう。山と海があるのだ。食材の宝庫と言っても過言ではない。ただ、生憎と俺には山菜を見分けることができない。
なので魚釣りに行くのが賢明だろう。海もあれば岸田川という川もある。狙うは川魚だ。稽古も手習いもひと段落したので食糧を求め岸田川に行こう。
一人では危ないということだったので村井五郎左衛門安行も一緒だ。彼は塩冶家の重臣である村井治郎左衛門安貞の嫡男だ。
齢は十五。既に元服もしている。なんというか面が長い。馬面と言っても良いだろう。優しげな印象を与える男だ。
「彦五郎様。釣竿を持ってきました」
「済まないな。では、行くとしようか」
二人で竿と魚籠を担いで岸田川へと向かう。雪は積もっていないものの風の冷たさが身に染みる。せめて温泉でもあればなぁ。この辺に温泉は無かったっけ。
「いやー、寒いですねぇ」
「そうだな。こういう時はゆっくりと温泉に浸かりたいものだ」
ふぅと溜息を吐いてしまった。自然と口をついて出てしまったのだ。それだけ俺が温泉を欲しているということだろう。この世界に来て風呂なんぞまともに入ってない。
「いいですねぇ。帰りにでも寄ってきますか」
「へ?」
情けない声を出してしまった。なに、温泉があるのか。
「近くに温泉があるのか!?」
「え、ええ。慈覚大師様が見つけたと言われている温泉が確か近くに」
「何故それを早く言わん!? まずは温泉に向かうぞ!」
俺は五郎左衛門を置いて歩き出した。場所もわからんというのに。逸る気持ちがそうさせたということにしておいてくれ。
五郎左衛門が案内してくれた温泉は湯村温泉と呼ばれている温泉であった。芦屋の城からだと片道三時間かからない距離だ。
それに道もわかりやすい。ただ岸田川を上っていけば良いだけである。辺りはブナやトチの原生林に囲まれている。悪くない立地だ。
いや、俺にとっては喉から手が出るほど欲しい理想の場所だ。ブナは椎茸が生える木であり、高温の温泉が噴き出ているこの場所は湿度も申し分ない。
そして本題である温泉だ。どうやら高温であるため、川の水を引いて加水してあるらしい。少し熱いが問題なく入れる範疇の温度だ。
「気持ち良いですねぇ、彦五郎様」
「全くだな」
山の中だけあって人はほとんど居ない。先客は一人だけだ。五郎左衛門がちらちらと気にかけている。俺に害をなさないか警戒しているのだろう。
しかし、その視線が露骨過ぎる。流石に向こうも五郎左衛門の視線に気がついたようだ。俺たち、いや俺を見つめて会釈をしてくる始末。何時もの癖で思わず会釈を返してしまった。
「いいお湯ですなぁ」
それに気を良くしたのか男性はこちらに話しかけてきた。歳の程は五郎左衛門よりも少し上といったところだろうか。源兵衛と五郎左衛門の間くらいだろう。体躯は細めで、他はこれと言って特徴のない顔立ちをしている。
「そうですね」
適当に相槌を打つ。それに気を良くしたのか男はぺらぺらと矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「ここには良く来られるので?」
「いえ、今回が初めてです。ですが気に入りました。繁く通おうかと」
男は弥右衛門と名乗った。どうやら岸田川の水運を利用して商いをしている男らしい。そのためか頻繁に湯村温泉に浸かりに来ているのだと。
俺も彦五郎と名乗った。塩冶の姓は名乗らん。もちろん五郎左衛門にも村井の姓は名乗らせておらん。見ず知らずの人間に情報を与えたくはないからな。
「商いということですが、なにを扱っておいでか?」
「主に米でございますな。この先の畑ヶ平で生産された米を岸田川で、はい」
「ほう、その方はこの周囲に明るいのか?」
「それはもう。因幡の東側と但馬の西側であれば何なりとお尋ねください」
これ幸いと周囲の地形を尋ねてみることにした。この温泉の周囲は山に囲まれているらしい。しかし、南に一時間ほど歩いたところに平野があるのだとか。これは良いことを聞いた。
この湯村温泉に拠点を築きたいな。この温泉の北西、川を挟んだ先にある小高い山の上に城を築こう。そうすれば河口と平野と両方に行きやすくなるはずだ。芦屋城周辺は徐々に湊町へ改修していきたいところだ。
それに城が一つでは囲まれた時に困る。どこかに後詰めの城を普請しなければならないのは自明の理だ。うん、養父にお願いしてみよう。
「五郎左衛門、温泉から上がったら戻るぞ。弥右衛門殿、貴重な情報を感謝いたす」
「いえいえ、参考になったようで重畳にございます。今後ともご贔屓に」
流石は商人。抜け目がないというかなんというか。弥右衛門か、覚えておいて損はないだろう。機会があったら米の用意をお願いするとしようか。
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