原始の彼女
嵐は突如として客船を襲った。それによる被害は計り知れない。
この船には客員と乗務員を合わせておよそ4000人、そのうち救助された人数は約300人のみだった。残りの人はどこに消えたかは分からない。
この事件は世界的に報道された。どうして事故が起きたのか、誰の責任なのか、消息を絶った家族の現状などと多くを報じた。
しかしそれは、二ヶ月もした頃には新しい話題がこの事件を歴史の一ページとして埋めてしまったのだった。
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潮の香りが顔に張り付いてくる。それが彼を起こすきっかけとなったのだった。
起きた彼が見た光景は、ヤシの木に似た植物と転々と散在している廃棄物の数々だった。
目が覚めたとしても体は起き上がらない。ただ伏せたまま首だけを動かし辺りを見渡してみる。
砂浜の奥には鬱蒼と茂る雨林が広がっている。一本の幹が太い、隙間は多くあるが間違いなく入ったら二度とこの海岸には戻ってこれないだろう。
這って動こうも背中に当たる日が服越しに背中を焦がしてくる。それによりただでさえない体力がさらに消耗されていく。
今自分の身に何が起きているのだろうか、自分がなぜ船から放り出せれてしまっているのかが分からない。
友人はどうした、客船で出会った恰幅の良い親父とその奥さんはどうしてしまったのか。そして私はどうなっている。どうなっているのだ。
ようやく意識がハッキリしてきたと思ったが、それと同時に喉の渇きと足の痛みも自覚してきた。
そしてまた意識は遠のいて行く。それは全く分からずに放り出されて気絶したのとは違い、確実な痛みを伴う苦痛が襲われたのだった。
(せっかく生きているのに何たる不幸だ! これなら意識など返らなければよかったではないか)
己を生かした神を恨みながら、彼の意識は暗黒の闇へと沈んでいく。そこに近づく足音にも気づかないままに。
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再び彼が目を覚ました時は、背中に当たる日差しは当たっていなかった。
彼の目の前に広がるのは石壁。といよりも剥き出したの岩、ただの洞窟の天井だったのだ。
もう何が起こっているのか訳が分からない。おちょくっているのか、私の命を弄んでいるのかと錯綜する。
するとガサガサと物音がした。
起き上がりそちらを見てみようとするも、足の痛みが激しく走り思わずうめき声をあげてしまった。
すると物音が止む。そして音が徐々に近づいてきた。
得体の知れぬ存在が近づく恐怖が彼を襲うも、彼の目に入ってきたのは恐ろしい怪物でも無ければ得体の知れない生物でもない。
ただの女性。褐色の肌を隠すこともなく、健康的な四肢を露にし、申し訳程度に胸と腰元だけを簡単に隠しているだけだった。
静かな目でこちらを見つめると、そっと近くに座り込んだ。そして何かを話す訳でもなくただ見つめるだけだった。
言葉を知らないのか、それともただそういう人なのか彼には存じ上げないことだった。
が、もう何をする体力もない。口を動かす体力も彼には残っていなかった。だが目を反らすのも癪なのでジッと見つめるその瞳を逆に見つめ返してやった。
そこからしばらく何も話さず黙ったままお互いに視線は外さなかった。
そして動いたのは褐色肌の女性だった。目線を反らして立ち上がると、彼の視界に届かない場所に行くと何やらゴソゴソと動いている。そしていきなり自分の足に何かを塗りつけた。
大きな声をグァッと出すも、彼女は塗りのを止めなかった。そして塗り続けられる内に、彼は疲れて再び眠りにつくのだった。
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彼が流れついてから一ヶ月が経った頃だろうか。彼の足の痛みは徐々に和らいでいき、少し足は引きずりながらも歩くことはできていた。
あの女性は未だに何も言わない。だが何故か甲斐甲斐しく彼の世話をしてくれている。
人助けのつもりか分からないが、魚や果実を持ってきては軽く炙りそれを渡してくるのだ。
それに対して彼は礼を言う訳でもなく、この奇妙な女性をジトッと見つめるだけだった。
なぜ生かしているのかは分からない。貴重な労働元になるとでも思っているのかは知らないが、下心があるに違いない。
彼は彼女を全面的に信用をしている訳ではない。むしろ少しの恨み似た感情を持っていた。
あの時俺を殺して置けば後悔することはなかった。消えた友人と仲良くなった夫婦について悩むことなどなかったのだ。
なのにコイツは俺を生かした。訳もなく生かしやがったのだ。
そんな感情が、世話をしてくれる彼女に向いていたのだった。
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流れついてから半年は経ったのだろうか。彼の足は完全に治っていた。
今までずっと世話をさせられたのがプライドに触った彼は、治ったすぐに彼女の後ろをついて行った。
いつもどこから食料を持ってくるのか、もし自分でも出来るのならばその仕事を奪ってやるとその気概で。
だがその働きはとてもじゃないが真似しようがない物だった。数十メートルの高さにある木を腕一本で登り、流れの早い川に飛び込むとそのまま素手何匹かを掴んで浮かんでくるのだった。
なんて乱雑な女だと彼は思う。これでは完全に原始人ではないか。文明から逆戻りしたこの女に品性は感じられない。
そんな風に侮蔑したが、それは自分が何も出来ないでいるのが悔しいから思っているのだと気づいている。
それが彼をさらに苛立たせたのだった。
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彼がこの島に来てからもうどれ程経ったのだろうか。
もう足の痛みはなくなった。そして頭の混乱も収まり、今この時をどうするかを冷静に考えることができた。
彼女の真似をすることは出来ない、それは分かりきった事実である。だからこれは持ち合わせの知識で道具を作った。
幹に絡み付く蔦と流木とで簡単な釣竿を作った。最初は全くうまくいかずに何度も折れたりしたが、何度か試行錯誤する内に魚が引っ掛かるようになってきたのだ。
その道具を彼女は興味深けに覗き、洞窟に戻ると何度も釣竿を持って遊んでいるのだ。
そして今までずっと黙りっぱなしだった二人なのだが、急に彼女がグッと近付くと「ンッ」と指さした。しばらく何を伝えたいのかは分からないが、やがて自分の名前を教えろと言ってるのではないかと思った。
「俺はジャックだ、ジャック・ジンクソン。よろしく」
彼が手を前に出すと、不思議そうな顔をして出された手をどうしたら良いのか迷っていたが、彼女はあってるのか不安そうにしながら手を掴んでくれた。
その手を彼は強く握る。
すると彼女は今までピクリと動かすことなかった顔を緩めると答えた。
「ヴェゼル。ヴェゼル・ナシャータ」
これが彼らが初めて交わした会話であった。
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もうど何年経ったのかは分からない。
彼女と初めて会話をしてから、お互いに言葉は伝わらない為に会話のほとんどはジェスチャーだった。だがそれもいつかは不便に思い、彼女は色々の物を集めると一つ一つ見せて、彼の言葉でなんと言うのかを聞いていくのだ。それを続ける内にカタコトだが軽い会話は可能になった。そしていつもの食料収集を終えると、彼女は彼の方をジッと見つめた。
「ジャック、見せたい、来い。遠くなし」
そう伝え彼を案内したのはいつかの砂浜だった。そこで広がるのは水平線の向こうで今にも沈みそうな夕日が大きく広がっていた。
「綺麗か? ヴェゼル、ここ好きだ。だから見せる」
嬉しそうに語る彼女の顔を横から見つめる。紅の日に照らされた褐色の肌は生命に溢れており、潮風が彼女の長い髪をたなびかせた。その姿には確かな美しさがあった。現代とは逆行した彼女の姿には偉大な美しさがあった。それを見つめる彼の目には、確かな情熱があったのだった。
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