相心流棒術の思い出。(十三)

 話が少し入り組んできたので、今までの経緯を整理してみます。


・『相心流』の絵馬武道額を見つけて興味を持つ。


・数年後、寛政元年頃に阿波に伝わった武術の記録『書上』の一部を入手。


・その十数年後、『相心流』の伝書の一部を相互さんが見つけてくれる。自分でも探して見つける。


・『相心流』が「木村郷右衛門」を中興の祖とする『柳生神影流』と同根と判明。


・『書上』に記載されていた『天真流』が『天心流』であると確認。


・『天真流/天心流』の「河端瀧右衛門」と、『柳生神影流』の「川端磯右衛門」は同一人物か、なんらかの関係がある?と推測する。


・さらに数年後、『徳島の剣道』がweb公開され、『相心流』が上泉伊勢守を祖として鵜戸で経津主命と武甕槌神の霊夢を受けて作られた剣・棒の流派「雙神流」だったのが神の字を恐れて『相心流と改名されたという、複数流派の由緒を組み合わせたことが記された目録があることが判明する。あとその目録免状は柳生から始まっていて伝系の一部が『柳生神影流』と重なっていて――


 ……最後ちょっと詰め込みすぎました


 けど本当に、一気に情報の海がざばーっと押し寄せてきたんですよ。

 マジで。


・『相心流』と『柳生流』は本来関係がない流派ではないかという推測する。


・『天心流/天真流』は『天心流兵法』という呼び名があり、その師範家が徳島伝承の『柳生流』に鞍替えしたんじゃない? ←今ここ。



 ここで一度整理したのは、『徳島の剣道』で入手できた関連情報はこれくらいだからです。

 他にもかなりの剣術情報が書き込まれていたのですが、『柳生流』そして『相心流』、『天心流』についてはこれくらいです。

 わずかに、『相心流』が江戸後期に流行っていたらしいことは別の記事に記されていたのですが、詳細は書かれてませんでした。


 私としましては、そんな風に広まっていた流派のことが、郷土史関係資料をあさってもろくにでてこないというのが大問題に思えますが……。


 とりあえず、こうして今回の連載で書かれたこと――私が何を見つけて、何が気になっているのかを改めて整理し直すと、


「相心流と天心流、柳生流の関係」


 ここに集約されます。


 正直、『柳生流』と『相心流』の関係まではともかく、『天心流』は本当に予想外でしたが。 

 こうして絡んできたからには、無視もできず……。


 私はこうしてごちゃごちゃと話がこんがらがってから、改めて最初から資料を読み返してみました。

 

 まず最初に戻る、出発点から見直すというのは基本的なことです。

 というか、さすがにこれ以上の資料はなく、ほかにすることはなかったから仕方がなく、ぐるぐると資料を再検証するしかなかったというのが正直なところでしたが。


 そうしていくうちに、最初の――最初の切幡寺の絵馬武道額に戻りました。


「というか、剣と棒の流派だったというのに、なんでこの流派はこんなにいっぱい武器が増えてるんだ?」


 


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る