相心流棒術の思い出。(三)

 2016年に至るまで、状況はほとんど動きませんでした。

 ほとんど、ということは少しは動いたということで、「相心流」についての情報、少しは入ってきていたことは入ってました。まったく微々たるものでしたが。


 徳島県『文化の森』にある文書館では、徳島県の古文書からテーマ別に色んな催しをしていました。

 その26回目が『阿波武道の広がり』でした。(※注一) 

 どういうものが展示されたかについては、リンク先にPDFで当時のパンフレットがダウンロードできるので、それを見ていただくとして……ざっくりと解説しますと、寛政元年頃に時の老中松平定信が各藩の武芸指南者の調査を命じた、その調査回答書の控えが蜂須賀家文書の中にある、その調査書の内容にある流派と指南者を書いたもので、『書上』と通称されるものでした。

 この『書上』は、後に私をさらなる混迷に誘うことになるのですが、その時はそれは解らず、「徳島県の武術について知れる、貴重な資料が手に入った!」と私は無邪気に喜んだものでした。

 とりあえず、この『書上』の棒術の項目に、ただ一つだけ流派が記され、それが「相心流」でした。

 このことによって、切幡寺の絵馬武道額は大阪から徳島に明治に移築され、その後に掲げられたものであるということが確定できました。

 これが2003年のことでした。

 しかし、その時はそれ以上のことは解らず、さらに13年、私は何もできずに足踏みすることとなります。


 ……と書きましたが、本当はやれることはまだいっぱいあったのですが、その時の私はそれに気づいてませんでした。

 そのことについてはまた後に触れますが、とにかく私は『相心流』について、ひとまず阿波の国に少なくとも寛政元年の頃から師範の人間はいて、絵馬武道額はどうも明治の頃に奉納されたので、明治の頃までは存続していた――というところまでわかったので、それでひとまずは満足していました。

 多分、これ以上調べてもろくに何も解らないだろうと思ったのがあります。

 それでもまあ、たまに検索したり、Twitterを始めてからは「相心流」のことをツイートしたりしてました。

 何せTwitterには変な知識をもっているひとがわんさかいるものですから、もしかしたら徳島の地方の流派について、何らかの情報をもっている方がいないとも限らないわけですし……

 ここらにはあんまり期待していなかったのですが。

 実際、たまにブログの記事などで切幡寺の絵馬武道額について言及している旅行記のようなものがあったりしましたが、流派の詳細などについて書いているものはみあたりませんでした。

 そんな日々も続いていれば、優先順位も下がります。

 私もほとんど検索しなくなったある日、相互さんからこんなメンションをいただきます。


「これは以前にツイートしたものではございませんか?」


 というような内容のツイートには、伝書の写真のスクショが貼られていました。

 それには確かに


『相心流』


 と書かれていたのでした。



※注一 徳島県立文書館 第26回企画展  阿波武道の広がりhttps://archive.bunmori.tokushima.jp/new_article/00000000057.html

 リンク先ページには当時のパンフレットがPDFでダウンロードができて、徳島の武術事情が知れる貴重な資料となっている。

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