第13話 「乃梨子。」

 〇桐生院乃梨子


「乃梨子。」


 庭の池のほとりにしゃがみ込んで、昔この辺りに『池の番人』って恐れられてた人形がいたよね…って思い返してると。

 優しい声に呼ばれた。


「あまり覗き込み過ぎて落ちるなよ?」


「えっ…そんなにおっちょこちょいじゃな…あっ!!」


「おいおい…」


 立ち上がった瞬間、お約束のように体勢を崩して。

 高原さ…お義父さんに腕を取られる。


「間一髪。」


「す…すみません。」


「何か面白い物でも?」


 お義父さんはそう言って、あたしの隣に並んで池を覗き込んだ。


「…高…お義父さん。」


「ふっ…無理にそう呼ばなくても。」


「ううん。慣れるまでは間違えちゃうかもしれないけど、あたしはそう呼びたかったから…」


「……」


 眩しそうに目を細められて、ああ…これは嬉しい時に見せる顔なのかなって思った。



 高原夏希さん。

 この人は…世界的に有名なバンドのボーカリストであり、世界中のアーティストが憧れる音楽事務所を創った人。


 ずっと…お義母さんを想い続けて…

 二人が複雑に絡み合った糸を解して結ばれるまで、随分と時間がかかったけれど。

 今、ようやく…手を繋いで一緒に居られるのは、嬉しい事。



 桐生院のお義父さんは、本当に…お二人の事が大好きだった。

 誓君には話せないけど、って…あたしには、色んな事を話してくれた。


 本当なら、自分が死んだ後に、奥さんが誰かと…なんて考えたくもない気がするけど。

 お義父さんは…今の形を、心の底から願ってた。


 最初は複雑な気持ちもあった。

 でも、何となく今。

 お義父さんとおばあ様は、笑顔になってる気がする。

 それなら、いいのかな…って。


 …お義父さんはいつも言ってた。

 高原さんには感謝し切れない。

 絶対に幸せになって欲しい、と。


 あたしも、みんなが大好き。

 だから…

 やり遂げなきゃ。



「…さっき、お義姉さんが出してくれた窪田の羊羹…」


「ああ、あれは絶品だな。」


「あたし、向こうでも…よくいただいてたんです。」


「え?どこで。」


 あたしは…あの老人の顔を思い浮かべて。

 そっと目を閉じる。



「…ここ五年程、毎月お花を持ってお邪魔している家がありました。」


「……」


 あたしの表情が硬かったのか。

 高原さんは…あっ、どうしても『高原さん』だなあ…

 ま、今はいいか。


 高原さんは、『話したくない事は、話さなくていいんだぞ』と小声で言った。


 そうじゃなくて……


「…桐生院のお義父さんから、訪問して欲しいと頼まれていたお宅なんです。」


「え?」


「ただの花屋として…月に一度、色んな花を持って行って欲しいって。」


「……」


 高原さんは一度チラリと広縁を見て。

 それから桜の木の下にあるベンチを指差した。


 …あまり誰かに聞かれたくない話だ…って、察してくれたみたい。

 広縁だと、お義母さんかお義姉さんには聞こえてしまいそうだから。



 確か、お義母さんが作った木造りのベンチ。

 この庭に、とても似合ってる。


「貴司のリクエストはそれだけ?」


 そのベンチに座ってすぐ、高原さんが静かな声で言った。


 …するどい…



「…自分が頼んだっていう事は秘密で行って欲しい、と…」


「……」


「あたしはフラワーセラピーで病院や施設を回ったりもしていたので、それで依頼されたのかと思ってました。」


「思って。という事は…それは違ったんだな。」


「あっ…なっなんてするどい…さすが…」


「ふっ。今のは心の声が漏れたのか?」


「えっ!!あっ、いえ…口に出しました!!」


 あー!!恥ずかしい!!

 高原さん、まだ覚えてたんだー!!

 あたしが、思った事を口に出しちゃうクセがあった事!!



「あ…あたしが花を持って訪れていたのは……紺野さんという…高齢の男性の所で…」


 後半は少し声が小さくなってしまった。

 ドキドキして…手に汗握ってしまう…


「…紺野…」


 その名前を繰り返して、高原さんはあたしに視線を向けた。


「…ご存知ですか…?」


「………兄の母の旧姓だ。」


 そう言われた瞬間。

 あたしの目から…ポロポロと涙がこぼれ落ちた。



 紺野こんの陽路史ひろしさんは…

 あたしが、五年間…毎月お花を持って通ったお屋敷の主。

 いつも遠くを見ているような目で、あたしの話を聞いてくれた。


「君が娘ならいいのに。」


 と、何度も言って下さった。

 あたしも、毎月…まるで里帰りするような気持ちで、紺野様のお屋敷に通った。



「まさか…本当に…兄なのか?」


 高原さんは、驚いた顔。


「ずっと…あたしも詳しくは知らなかったのですが、先月の訪問の時、帰国する事を伝えると…紺野様のお世話をされてる方から、素性をお聞きしました。」


「……」


「…前は、高原というお名前で…大きな会社を経営されていた…と…」


「その…世話人は、日本人か?」


「…はい。篠田剛志さんです。」


「………ちょっと待て。」


 高原さんは額に手を当てて、考え込んだ。


 …そりゃそうだよ…

 あたしだって、すごく謎だった。


「…その人は、千里の祖父の執事だった人の息子…だな?」


「はい。」


「どうして、その人が兄の世話人に?」


「桐生院のお義父さんに…頼まれたとおっしゃってました…」


「……」


 高原さんは混乱した様子で。

 膝に手をつくと、前のめりになって…少し考え込んだ。



「…兄は今…どこに?」


「…リトルベニスです。」


「リトルベニス…俺の生まれ育った街だ…それも、もしかして貴司が?」


「はい…お住まいを用意されたと、篠田さんから聞きました。」


「…貴司…なぜそんな事を…」


「……」


 高原さんは…どこまでをご存知なのだろう。


「…紺野様は、ご自分の事をほとんど話されませんでした。だけど、ある日…一枚のお写真を見せて下さいました…」


「……」


「昔、一度だけ恋をした…と…」


「!!」


 あたしの言葉を聞いた高原さんの様子で。

 ああ…この人は知ってたんだ。と思った。


「その…相手の女性を…あたしは…見た事があって…」


 紺野様が持っていた写真では笑顔だったその女性は。

 桐生院の中の間で、ご先祖様と並んでる遺影の一人で。

 …無表情の、美しい人。


 …誓君と、麗ちゃんの…お母様。



「あたし…っ…それを見て…すぐ気付きました……」


 涙が…止まらない。

 広縁から誰かが見たら、怪しまれる。

 あたしは、必死で溢れる涙を止めようとした。

 だけど…紺野様のお屋敷での色々な事が頭をよぎって。

 …どうしても…


 古い写真を大事そうに手にされた紺野様。

 彼は…その女性が人妻だとは、知らなかった。



「一度、結婚を申し込まれてね…」


「…えっ…?」


「しかし、私よりうんと若かった彼女に、私は気後れした。」


「……」


「…誰にも必要とされない人生は嫌だ…って泣かれたよ。」


 誰にも必要とされない人生…


 紺野様の現状を見守るよう、あたしに想いを託したお義父さん。

 あたしはずっとそれが…誰かに対しての罪滅ぼしのようにも思えてたまらなかった。


 そしてそれが、誓君と麗ちゃんのお母様…容子さんと。

 何も知らないまま…孤独を選ばれた、紺野様への贖罪なのだと気付いた。


 きっと、紺野様と容子さんは想い合っていた。

 だけど大会社の柱となる人と。

 すでに華道の家に嫁いでいた人。


 何の壁もなければ…二人は結ばれていたかもしれないのに…



「…誓は…この事を…?」


 その問いかけに、小さく首を横に振る。

 …言えるはずもない。

 あたしにも衝撃過ぎた。

 誓君に…受け止められる…?



「…何度も…打ち明けたい衝動に駆られました…でも…」


「…言えないよな…」



 真実を知った時、複雑な思いしかなかった。

 どうしてお義父さんは、あたしに紺野様の所に行けと言ったの?と。


 だけど…お義父さんが亡くなった後、篠田さんから聞いた。

 お義父さんの、想い。


 もしかしたら…篠田さんも全てを話してくれたわけじゃないかもしれない。

 あたしの中にも、いくつかの疑問は残る。


 …だけど…

 もう、真実なんて、いいんじゃないかな。とも…思えてる。



 あたしはこれからも。

 そのお義父さんの想いを、受け継ぎたい。


 紺野様が、静かに旅立たれる…その日まで。



 --------------------

 うーん!!複雑!!

 38thの8話とか48thの79話とか…

 読んじゃう? 読み返しちゃう?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る