第8話 「…なっちゃん、こぼれてるよ。」

 〇高原さくら


「…なっちゃん、こぼれてるよ。」


「え?あっ。」


 あたしが指摘すると、なっちゃんは手にしてたカップから紅茶がこぼれてる事に気付いて。

 慌てて広縁の床板を拭きながら、苦笑いをした。



 なっちゃんの入院は…二週間ほどだった。

 規則正しい生活をして、少しの検査と…点滴。

 それも、気休めみたいなやつ。


 だけど咳き込まなくなった。

 それだけでも十分。

 うん…

 そうだよ…



「何ボンヤリしてたの?」


 なっちゃんの手をタオルで拭きながら問いかけると。


「Leeが、バンドを組んだ。」


 そう答えた瞬間…なっちゃんの目が輝き始めた。


「ふうん…Leeちゃんがバン…えっ!?Leeちゃんが!?」


「ははっ。さくら、最近反応が遅れてくるようになったんじゃないか?」


 なっちゃんがあたしの頭を撫でながら笑う。


「ぶー…仕方ないじゃない。あたしだって、お年寄りなんだからあ…」


 唇を尖らせると。

 なっちゃんはクスクスと笑いながら、あたしの唇を人差し指で押した。

 …こういうの、何だか…懐かしい感じがする。

 トレーラーハウスで暮らしてた、あの頃を思い出しちゃうな。


 唇に押し当てられた人差し指をパクッと食べるふりをすると。

『食われるところだった』って、なっちゃんは笑いながら指を引っ込めた。



「…はっ……もしかして、昨日お出掛けしてたのって…Leeちゃんに会ってたの?」


 ハッと気付いて問いかけると。

 なっちゃんはコソコソしてたのがバレて気まずかったのか。


「悪かった。次は一緒に行こう。」


 そう言って、あたしの肩を抱き寄せた。



 あたしは今、極力自宅にいるようにしてる。

 二階堂の件で渡米してたのは数日だけど…

 それでも、なっちゃんと離れてたから。

 家で出来るビートランドの仕事を持ち帰って、里中君とはデータのやり取りをしたり、彼が帰りにうちに来たり。


 昨日、大部屋で里中君と打ち合わせしてる最中。

 なっちゃんは『散歩に行って来る』っていなくなった。

 散歩と言いながらも、二時間以上帰って来なくて。

 心配になったあたしがLINEすると、『事務所でお茶飲んでる』って。


 …行きたいなら最初から言ってくれればいいのに。



「フェス、盛り上がりそうだな。」


「…うん。」


 本当なら…なっちゃんも出るつもりだった。

 だけど、里中君が止めた。

 華月も…止めた。

 あたしも…あたしも、止めたけど…


 これでいいの…?って…悩んでる。



 なっちゃんは。

 あたしだけのなっちゃんじゃない。


 世界の…

 Deep Redの、ニッキーだもん…





 〇里中健太郎


 夜の会長室。

 さくらさんの号令で、ナオトさんと朝霧さん、神と俺が集まった。



「フェス…Deep Redは出ちゃダメかな…。」


 部屋に入ってすぐ、さくらさんにそう言われた。


「…俺は…賛成できません。」


 俺がそう言うと、ナオトさんと朝霧さんは腕組みをして溜息をついて。

 神は…組んでた足を組み換えて。


「…俺は歌わせてあげたい。」


 小さく言った。


「そりゃ、俺だって歌って欲しい。だけど…そもそも一枠の30分…いや、半分の15分だって…歌うなんて、無理だ。」


「……」


「新作のレコーディングが限界だったと思う。」


 ヘッドフォンで、高原さんの声を拾い続けて。

 なんてすごい人なんだ。と震えると同時に…

 苦しい息遣いも耳にして…辛かった。


 ボーカリストとして終わらせてあげたい気持ちは、当然ある。

 だが…

 ステージ上で吐血したら?

 それだけならいい。

 もし、その場で倒れて…



「うん。分かった。」


 俺達が俯いてる中。

 さくらさんが、ポン。と手を叩いて言った。


「Deep Red、一曲限りの出演はどう?」


「……は?」


「一曲。それなら…大丈夫じゃない?」


「……」


 俺は口を開けたまま、さくらさんを見た。


 お…おいおいおいおいおい!!

 聞いてたのかよー!!

 高原さんは、もう歌える状態じゃ…


「歌わないと、あの人死んじゃうよ。」


「っ…」


 さくらさんの言葉に息を飲む。


 それは…


「はー……ったく…」


 大きく伸びをして立ち上がったのは、朝霧さん。


「せやな。あいつ、歌ってないと死ぬわ。」


「言えてる。」


「……」


 Deep Redの二人にそう言われては…もう何も言えない。

 だけど…


 だけど、俺は…失いたくないんだ。

 あの人を…



 俺の気持ちを置き去りに。

 翌日は朝から大幅な変更作業に追われた。

 フェスはもう来週だって言うのに…何度上書きすればいいんだ…!!


 いつもイベントのたびに…色んなトラブルで組み換えがある。

 高原さんはそれらも容易くやっていたように思うが…


「…このThe Darknessってバンドはどこの新参者ですか。」


 目を細めて一覧表をさくらさんに突きつけると。


「あっ、これはねー…うん。いいんだよ。大目玉。」


「…ただでさえキツキツなのに…」


「大丈夫大丈夫。」


「……」


「…ふわぁ…」


 ふと、さくらさんの大あくびに顔を上げる。

 …そう言えば、昨日の今日でタイムテーブルはすでに三パターン出来上がっていて。

 スタッフの配置や照明の図案も…


「…徹夜ですか?」


「まさか!!ちょっとは寝たよ。お肌に悪いもん。」


「……」


 最近は桐生院家に出向く事が多かったが、今日は久しぶりに会長室での打ち合わせ。


「今日、高原さんは?」


「息子夫婦が帰って来るから、ソワソワしてた(笑)」


「ああ…あの、海外で華道をされてる息子さん…」


「うん。また人数増えて賑やかになっちゃう♡」


「ほんとですね。」


 そんな会話をしながら、二時間ほど作業を進めた所で…


『里中さん、修理部の方にご連絡くださいとの事です』


 インターフォンから、呼び出しが。


「あー…ちょっと行って来ます。さくらさんも休憩して下さい。」


「うん。そうしよ。あー、頑張った!!」


 立ち上がって、んーっと伸びをしてるさくらさんを尻目に。

 俺はオタク部屋に向かう。


 俺が席を外しても、さくらさんは休憩しないかもしれない。

 だが、高原さんがフェスに出る事に最後まで渋った俺と作業を進めるより…気楽にはなるかもしれない。



「はー…」


 エレベーターの中で溜息を吐く。


 最近、分解も修理も出来てない…

 知花ちゃん来てないかな。

 一緒にPPRの分解でもしてくつろぎたい…



「あっ、里中さん。お忙しい所、すみません。」


「いや、どうした?」


「これなんですけど…」



 それから30分ほど、音楽屋から回って来たというアンプの修理を手伝って。

 少し栄養をもらえた気分で最上階に戻ると…


「さくらさん、お待たせし………あ。」


 ドアを開けると。

 ソファーに…高原さんがいた。

 高原さんの膝では、さくらさんが…スヤスヤと眠ってる。


「…少しだけ、眠らせてやってくれ。」


 高原さんは小声でそう言いながら、唇の前に人差し指を立てた。


「あ…ええ…当然……俺はこっちで作業してますんで……」


 二人に背を向ける位置に座って、図面を開く。



 …いい年して、ドキドキした。


 膝枕で眠るさくらさんの頭を…優しく撫でる、高原さんの手。

 それは、慈しみと愛に溢れていて…胸がしめつけられた。


「……」


「…里中…」


「…はい…」


「…悪いな。諦めが悪くて。」


「……」


「…感謝する。ありがとう。」


「…いえ…」


 歌って欲しい…歌って欲しくない…

 だけど、ここまで来たら…


 俺の気持ちなんて、どうでもいいんだ。




 全て、高原さんのために…。




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