第18話 沢渡チエ


 ――人間に長らく矛盾を感じていた。



 切っ掛けは父。


 私の分娩で母が出血多量で死去し、当時の彼は安定を欠いていた。


 毎週、墓石の清掃で見せていた沈痛な面持ちからも精神に大きな傷を抱えていたのだと推察できる。それでも有難いと取るべきか、懸命に愛情を注ぐことは怠っていなかった。


『お願いだ、チエは傍にいてくれ』

『僕の宝物だ』

『愛してる』

『チエは僕が守るからね』


 盲愛…依存とも言っていいようなものだったが小さな私には縋り付けるというだけで十分な心の拠り所であり、そこに信頼関係があるとも感じていた。


 転機を迎えたのは彼が言葉足らずの幼い娘だけの侘しさに耐えかね、新しく交渉した配偶者を私と引き合わせようとした時だった。


 義母という者がどのような存在であり、何故私に関わってくるのか、すぐには理解できず常に警戒していた。その態度が行き違いを生んだのだろう、いつしか始まった嫌がらせが虐待へと発展していった。


 そのことに関して父の態度は良くも悪くも変化がなかった。私に傷が増えると謝罪しながら手厚く看取り、その一方で不満を訴えても義母に甘い顔をするばかり。


 娘を懸命に育てようとしていた父親が娘を危険に晒す存在を許している。


 当時の私が持ち得る常識とは大きく掛け離れているこの事象。傷心や憤りより何故なのかという疑問が強く湧いてきた。受けた愛情への真偽を確かめたいという心情もあったのかもしれないが、これが後に私を私たらしめる起点となったのは間違いない。


 虐待を避けるためにも図書館に通い詰め、彼の状態が如何なるものかを調べ続けた。そして解明に繋がったのが、ある調査記事との邂逅。


 壁外生物の調査で高等生物には感情や心理があり、それは場所や時期、状況によって簡単に切り替わることがあるのだという記述を見た。


 愛情を持って育てていた子に一つ異変を発見すると簡単に子を喰らい、次の子を宿そうとする鋼兜猿。どれだけ信頼関係を確立していた群れの仲間も役割が重複すれば躊躇なく殺し合うことになる茜狼。その時まで抱いていた感情とは別の感情が瞬時に働く。


 一見矛盾に思えた自分の父親の言動も、これらの生物たちと同じような働きが起きているのかもしれないと考えたら合点がいった。


 母親のいない私は正常に育たない可能性がある。よって新しい可能性に賭けようとする感情、それと以前までの感情が並行しているのだ。無意識か、実際にはもっと複雑な処理がされていたかもしれない。だが、どちらも本当の彼自身であると言えるのではないか。


 実証はせずとも内心では安堵し、同時に興味自体を失った。それから彼は父親ではなく一匹の動物、観察対象に成り下がった。


 以後、彼らから離れ、私は生物の本質というものに強く惹かれるようになった。人間の行動や感情、能力、仕組みはそれらに準ずるものであると理解する度に他人に幻滅し、嘲笑い、利用した。まるで人類に擬態した寄生生物のように。それ自体が私の愉悦であった。


 そして一層その意向を加速させた要因もまた父親であった。


 私は存在すら忘れていたのにも拘らず、彼は久々の再会に涙を流して悦んでいた。肩に雫が滴る中、私は彼を近くに感じて切実に思った。


 あぁ、なんて哀れで情けないのだろう。


 その感情が本物であるかどうかなど至極どうでもいい。聞かされた話では義母にも見限られ、一人で暫く私を探し回っていたのだという。


 他人にも自分自身にも振り回され、右往左往している。そんな間抜けに毒気すらなくなった。


 私はより彼らと離反するため、自身の個としての確立のため、生殖機能を断ち、規範から外れ、自衛を熟考するようになった。


 十数年が経ち、気づけば私は壁外生物対策研究所(NPA)で職員をしていた。


 他人に資源を用意させ、好き勝手に研究をし、少しの分け前をやれば完結する仕事。煩わしいことがあるとすれば他人と話さなければならないということだけ。全員が私の美貌の前に惚れ込んでいるため、まだ扱いやすくはあったが、どうしても無駄な時間が増えてしまう。


『沢渡、第14防壁の件について今話せないか?』

「明日だ。打ち合わせなら今夜にでも改善点をまとめる」

『そうか、実は先ほど新作リンクルのサンプル品をもらい過ぎてしまったんだ。摘まみながらでも今夜、私の視点も入れてだな…』

「それより注文した機材、2週間以内に頼むよ晃一。あとリンクルは明日持ってきてくれ」


 父親に作らせた弁当を食べる最中、しつこく私に仕事をさせようとする物好きが、この矢島晃一。大企業リング社の出世頭らしく顔が広いため、手に入りづらいものを調達させるのに役立つマシな男。


「沢渡先輩、すいません少し来てもらってもいいデスカ?」


 有用な男2人目、私のレポートを読んでここに転属してきた15歳の阿藤守という子供。動物と友好関係を築くという願望に憑りつかれている。


 壁外生物は知能が高い種族や個体もいるため不可能ではないが、私はそれ自体はどうでもいい。協力という形で自分の研究を上乗せさせてもらっている。


「B-88の生体質を発現させてるんですが、どうやっても相手側の脳波に同じ反応しかなくて…」

「一方的なだけでは限界か。対象が思念を受け取れるようにするアプローチに変えた方がいいかもね」

「ナルホド」


 天敵の群れの連携を念波で撹乱させる生体質を持つネズミ。この被検体に試験薬を投与し、生体質と知能を向上、調整する実験。これの完成体を使役して阿藤は壁外生物との対話を試みようとしている。以前に一度だけ理由を聞かされたことがある。


『友達になってみたいんデス。思いを伝えて皆で仲良くなれれば…争わずに済むなら、きっと世界はもっとハッピーになる』


 そんなことをしたらただでさえ感情が発達し過ぎている人間に躊躇が増える。それがどれだけメリットのないことなのかを伝えても尚、諦めずに続けていた。私は試験薬の結果さえ良好ならそれでいいのだが、こういう性格は扱いやすくも暴走もしやすい。


 そして案の定、暴走は早かった。ネズミは完成し、その功績から研究所所長となった阿藤だが目的の対話は失敗続きのようで、どんな事があったかは知らないが、思想が180度反転していた。極めつけには私の試験薬(ハザードアッパー)を利用して反政府的なことも計画している。


 最近、政府の役人が私の研究『人間への生体質移植』によく首を突っ込みに来るので非常に危なっかしい。私自身も示皇の生体質を解析するという禁忌を犯してしまっているがために何かの間違いで本格的に調査が入ってしまったら不味い。


 そろそろここも潮時かと思い立ち、私は自分の研究データと痕跡を一切合切まとめて遁走する事に決めた。丁度、阿藤のおかげでハザードアッパーが撒かれた環境下を観測できるようになったため、その近辺に拠点を置くことにした。


 問題は壁周辺に元からあった住居の改修と機材の調達のせいで私産が尽きたということ。食費や生活費は町にある神社の賽銭で賄えるとして実地調査の消耗品は高くつく。


 解決の糸口を模索している最中のことだった。


 いつものように神社から頂戴しようとしていたところ子供を拾った。


 結果、町から金を徴収するため引き取ることにした。経験はなく、理想すら知らない私には育児と飼育が判別できず容易なものだと考えていた。


 だが実際は違った。


 最初こそ、その子は擦り寄ってきたものの無駄だと自覚してからは過度に甘えてくることもなく勝手に過ごしていた。それが言葉を覚え始めてからは好奇心旺盛で辞書を買い与えても質問が絶えない。


 それに神社に放置されていた影響か、感情に合わせて表情筋を動かすことができない。人間社会を生きるには致命的な欠点だ。少なくとも外に出た時に違和感が出ないようリハビリとして鏡の前で10分間表情を動かす習慣をつけさせ、礼儀礼節を教え込まなければならなかった。


 厄介で手間の掛かる。コスト不相応。本来の私なら即座に計画を見直す。そうしなかったのは、子供の生体質に興味が湧いたからである。


 人間は壁外生物と違い、数多くの天敵を協力して迎え撃つため、進化で形質を変えず生体質を多様化させる術を編み出した。個体差や各地域で多少の違いはあれど生体質のために身体を変異させることはない。


 しかし、その定説が今翻っている。


 黒い膜のようなものがあの子の表皮に現れ始め、日々拡大している。すぐ病魔ではないと断言できた。膜は光を反射するが物質は寄せ付けず、可能な限りの手段を試みるも採取ができない。体内スキャンは何も写らず、感覚機能もなくなっている。


 私は急ぎ籠りきりで究明に努めた。


 あの子の身体は生体質を持続的に発現させようとしている。それ自体は然して珍しくもないが、外界神経を通じて力を行使するはずのエネルギーが立所に行方を晦ますのは以前に解析した示皇のデータを除いて見たことがない。恐らくは私の理解を越えた何かが働いている。


 あることを想起させられた。


 リング社の領国で行われた一大計画だ。世界の外側を見るため空間を無理に引き裂こうとした結果、都市の一つを吹き飛ばしたらしい。阿保な話だが記録にあった『第8-8951層、虚無の壁』が例の黒い膜の特徴と酷似している。試しに観測情報を基に同じ方法を取ってみても瓜二つの波形や数値が出た。


 国家レベルの予算と人間が集まって抉じ開けた謎の現象を信じ難いがそこらで拾った子供の生体質が起こしている。何故か、このまま膜が広がれば自身を破滅に追いやることにもなる。そんな力が偶発したとは…とても考え辛い…


 仮定の話なら幾らでもできる。


 長く人間の生体質を調べてきたが、まだ謎は多い。外界に及ぼす事象は説明できても、そのためのエネルギーの所在は未だ不明確だ。示皇やあの子に関しては事象すら説明できない。やはり人間だけが矛盾している。これを打ち解かせば、或いは…


 あの子の中身を覗ければ…或いは…


「………はぁ」


 頭を椅子の背もたれに投げだし、天井を見上げる。


 そういえば、最近は四六時中地下にいて顔すら見ていない。今日も町に行っているのだろうか、昼にはいなかった。この『なんでも1いうことをやるケん』というのも使い時に困る。


 しかし意外だった。実際に渡されてはいないが、子供の施しなんて高が知れていると伝えてたにも拘らず、こんなものを私に宛てるなんて。かくいう私も無力な子供に一つだけお願いができる紙切れを捨てずに持ち去っている。


 経験が個体に変化をもたらすのはよくある話のはずが、皮肉にも私が実例になって気づかずにいたとは。あれほど人間の行動を調べ上げ、論理立てても完全にそれを御しは出来ないということか。


 私は他人事のようにそう思っていた。だが、今はその甘さを悔いている。警戒が疎かになっていたことに気付かなかった。


 10㎞範囲に仕掛けていた生体速度探知機に反応があった。大人数が高速でこちらに向かってきている。明らかにただの来客ではなかった。



 - 現在 -



「ナナシ! 早くこっちに来な!」


 恐らくはNPAがここを嗅ぎつけてきたか…まさか大胆に実力行使とはな。急いでナナシを脱出用の水路に…


「…どうしたんだ?」

「何も言わずここに入るんだ。下まで滑り落ちれば…」


 キッチンの壁、収納に見せかけた人ひとり入れる小さな扉に震える体を押し込む。その時、襲撃は一瞬で始まった。


 家全体が潰れるような音を立て、横真っ二つに引き裂かれた。眼前の不安そうに目を泳がせる顔を見て咄嗟に我に返り、扉を閉める。


「沢渡チエだな。両手を頭の上に組んでゆっくりこちらを向け」


 ゆっくり後ろを振り返った。武装した連中が半分になった家の玄関を蹴り破り入ってくる。そして体が見えない力に押さえつけられたように動けなくなった。これは念動力…それに中央の赤肌に赤髪の男…隣国から炙れた傭兵といったところか。


「阿藤のバカもこんな野犬を飼うほどにタガが外れたか」

「…抵抗はするな、持ち去ったデータを返してもらう」

「あまり派手にやるとタイムキーパーに気づかれるんじゃないのかい? それに返せと言われても全て私の成果だ」

「逸れ者同士の潰し合いは示皇の目に留まらない。素直に従った方が身のためだぞ」


 男は「子供も探せ」と指示を出し、仲間の女が家の中を荒し出す。このままでは退路が見つかる。かと言って研究データならまだしも地下のあの子のデータを奴等に見せるわけにいかない。入口も仕掛けで隠しはしたが、じっくり調べられたら気づかれるかもしれない。


 やるしかないか…


「そこのトランクに全て入っている。私の力でないと開けられない仕組みだ」

「…右腕を自由にする。妙な真似はするな」


 防護マスクを被った男がトランクを持ってきて乱暴に突きつけてくる。従順な態度で鍵を開け、中に手を入れた。


「止まれ、中身はこちらで確認する」


 また体を固められてトランクから引き剥がされる。マスク男が中にある記録媒体を取り出し、小型デバイスでデータを確認する。


「目的のもので間違いありません。送信しました」

「そうか…」


 用は済んだはずだが、帰るでも私を始末するでもなく赤髪の男はしばらく黙って家を見渡していた。


「ボスからあんたのことは聞いている。妙に素直過ぎるのが気に食わない。子供はどこだ?何か隠しているな?」


 私を読もうと注意が逸れている…もうそろそろだ。


[パァン!]


 強烈な光と音で奴等は反射的に目を庇い唸る。


 トランクの中にあった物を変えてタイマーフラッシュを仕込んだ。おかげで念動力の集中が解け、身体に自由が戻った。


 また拘束される前に先手を打つ。テーブル片脚と床をバネ化と形状変化の力で押し出す。テーブルが弧を描きながら赤髪の男へ飛び上がり、奴ごと壁を突き破って外へと追い出した。やはり力は強くとも輪郭を捉えるには時間が掛かるようだ。


「こっ、このぉ!」


 マスクの男が遅れて襲い掛かってくる。掴み掛かろうとしていることから私と同じ接触型なのだろう。床に触れながら泥濘を作って後退する。連中は全員がプロという訳ではないのか、簡単に突っ込んで足を取られていた。上下に手を構え、倒れ込んでくるマスクを掌底と共に床へ叩きつける。ついでにマスク内を密封してやり、奴はもがいて立ち上がらない。


 騒ぎを聞きつけ、別の部屋を捜索していた女が駆けつけてきた。右手を私に向けようとしてきたところを弾き、壁に縫い付けてやるとその掌から炎が噴き出した。発火能力だ。手を壁から引き剥がせず、自ら撒き散らす炎に苦悶している顔面へ裏拳を入れて意識を飛ばす。


 これで邪魔者は片づけたが、先程の炎が家に引火した。恐らくまだ外に数名も待機しているだろう。急がなければ…


「んゔっ!」


 衝撃で吹き飛ばされた。意識が明確になるにつれ、背中に違和感を覚える。テーブルの脚の一本が突き刺さっていた。あの赤髪の男だ。


「楽に死なせてやるつもりだったが、自業自得だな。子供共々、炎に焼かれながら苦しんで死ぬことだ」


 火が私と奴等の間に燃え広がり、ゆらゆらと霞む視界越しに憐むような顔が見える。


「おい、退避だ。起きろ!」


 奴は壁に手が張り付いたままの女に肩を貸し、揺さぶりながら引っ張る。


 仕掛けが役に立った。女の手が壁を引っこ抜く。


「壁が…脆い?」


 気づいた時にはもう遅い。壁が崩れて屋根の下敷きに…いや、脱出したか。どちらにせよ、すぐには来れないだろう。


「ナナシ…ナナシ、いるかい」


 壁にもたれ掛かりながらあの子のいる場所に行こうとするが、血がぼたぼたと垂れ流されて立っていられない。思ったよりも傷が深い。


「婆、家が、火が…早くこっちに…」


 はは、なんて情けない声だろうね。どれだけ必死なんだ。


 瓦礫のせいで扉が僅かにしか開かない。仕方なく隙間から手を伸ばしてやる。


 自分でミルクも飲めなかった小さな手がいつしか私から離れ、一人で町に行くようになっていた。心配や誇らしさ、変化を感じていた。


 町に行く度に増える質問も鬱陶しいというより傍にいられなくなった時、上手く立ち回れるようにしてやりたい、不利を被るこの子に多くを残してやりたい、そう思うようになっていた。


 父親に失望し、人間を嘲笑い、研究だけを続けてきた私が今更…


 そう疑うも繋いだ手にはリード以上の意味があり、初めて素直な感情を話す自分がいたのも確かだった。都合のいいことに嫌悪感はない。


 この子がいるから私はもういい。心のどこかにそう呟く自分がいた。


「ナナシ、よく聞きな」


 愛情なんてものの仕組みはずっと前から知っていた。なぜ人がそれを発達させたのかも、自分の変化とその理由も、滑稽であって矛盾しているのも全て…それでも…


 それでも…お前は…

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