第13話 初めての交渉
- イズレ荘 朝 -
いつもと違う朝にすぐ目が覚めた。
太陽の眩しさじゃなく感じたのは息苦しさ。真っ暗な中で何かにしがみつかれ、身動きが取れない。少しパニックになった。
「う~ん……ん?」
振り解こうと動いていたら急に頭の上の方が明るくなる。
「あ~おはよう、ナナシくん…」
見上げると目が半開きの眠そうな高憧さんがこっちを覗いていた。思い出した。今は家を使わせてもらっているんだ。ということはここは布団の中か。
「おはよう…ございます」
「あっごめん!」
擦れた俺の声を聞いてすぐに手が離れる。
「どこか痛くない? 大丈夫?」
「大丈夫」
「ごめん…子供って温かいから、つい…」
ちょっと笑いながら謝られたけど、何か違えば俺は大変なことになっていたかもしれない。大人と寝るのは危ないから気をつけないと。反省しながら布団を出る。
起きたらいつも通りに顔を洗って鏡の前で顔の体操。隣で見ていた高憧さんが「なんで急に変な顔してるの」と笑う。俺が顔を動かすのがよっぽど面白いらしい。
朝ご飯は高憧さんの作ったというパン。しょっぱいような、甘いような、少し硬かったけど美味しかった。
「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様~」
食べ終わったら食器は自分で洗わないといけないのだけど、ここには踏み台がないから今は鼻歌を歌いながら洗い物をする後姿をただ見ている。
「ナナシくん、おばあちゃんってまだ帰ってこないんでしょ?」
「うん、あと一日くらい」
「じゃあ、今日も泊まっていきなよ」
あんまり驚きはなかった。大人が子供に優しくなるのは教えてもらっていたし、昨日の夜にそうならないかと考えていたから。
「このあと仕事だけど、明日なら休みで家まで送ってってあげれるし…ん、どうかした?」
「…何でもない、ありがとう。そうさせてもらう」
これで今日の寝る場所も帰る方法も一気に何とかなって、しかもまた町を探検する余裕もできそうだ。でも、思い返してみたら何一つ予定通りになってないな。運がいいのと町の大人たちが優しいからなんとかなってしまっている。
前に『レッドクロスマン』を見ていた時、婆に言われたことがある。
『くだらない、この世には都合のいいヒーローも分かりやすい悪党もいやしないよ』
今はそんなこともないんじゃないかって思えるけど、言っていることは分かる。ずっと運や他人に任せるのは良くない。今度からはもっと準備に時間を掛けた方がいいな。
「私、仕事行ってくるからね」
「俺も外に出たい」
「えっ、あー外で遊びたいか。じゃあ…家の鍵、渡しておこうかな」
外に出て、ドアに刺して戻す鉄の棒を渡された。辞書で調べてみたらドアが開かなくして、勝手に知らない人が入らないようにするためのものらしい。
「無くさないように気を付けてね。家に入れなくなっちゃうから」
「分かった」
そんなに大事なものを俺が持っても大丈夫なのか。絶対に無くさないようにポケットの中でもボタンで閉められる所に入れておく。
「高憧さん!」
手を繋ぎながら後に続いて階段を下りていると男の人の声がした。
「あっジョーさん、おはようございます」
「おはようございます! これ、この間もらったパンのお返しで景道で買ったお茶っぱです。よかったらどうぞ」
「えーそんな、作りすぎただけだったんでお気遣い頂かなくても」
俺からは見えない階段の折り返しの方へ高憧さんが話している。
「それで高憧さん…今度ですけど……あっ!」
「?」
回り込むと向かい側にいた男の人と目が合った。
「海崖とこのガキ…なんで!?」
俺を見た瞬間に指をさして大きく驚いていた。今日は鏡で確認したし、変な所はないはずなのだけど…
「あれ、ナナシ君とお知り合いですか?」
「いえっ…知り合いっていうか、何と言いますか…」
「こんな偶然あるんですね」
見覚えがない。いつ会ったんだろう。
「ナナシ君、これ家に持ってっといて。あと夕方には家にいてね」
「分かった」
「それじゃあ、私はこれで。お土産ありがとうございます」
「えっあ、高憧さんちょっと…」
高憧さんは持っていた箱を俺に渡すと、男の人が何かを言う前に行ってしまった。置いてけぼりにされたみたいに男の人は固まったまま、ゆっくり腰が落ちて地面に大きなため息を吐く。
話し掛けた方がいいのかと様子を見ていたら急にギロッとこっちに目が向いた。
「お前、なんで高憧さんと一緒にいんだ?」
さっき話していた時とは感じが変わって怒ってるみたいだった。知らない大人からこんな嫌われた風にされるのは初めてで驚いた。もしかしたら悪い人なのかもしれない。
「なんだよ、何黙ってんだよ」
男の人は長くサラサラした髪をイライラ掻いた後、面倒臭そうに全部後ろでまとめて顔を前に出した。
「ほら、タクシーのお兄さんだ」
「…タクシーってなんですか?」
「車! 車の運転手! お前、乗っけてやっただろ?」
「…サングラスのおじさん?」
「おじさんじゃねぇよ、俺はまだ25だ」
思い出した。車の窓から見た顔の形と似ている。あの時は帽子とサングラスを着けていたから気づけなかった。
「で、なんで高憧さんと?」
「自分の家に帰れなくなったので、高憧さんの家を使わせてもらったんです」
「…んぁ? 婆さんはどうした?」
町に来てから何度も聞かれてきたことに正直に答えた。ここに来た方法も、婆に秘密ということも全部。この人は婆を車で町に送る人だから嘘を言っても通じないと思ったから。
「じゃあ、なにか? 高憧さんとぉ、お前、ご飯食べたり、一緒の部屋で寝たり…まさか、お風呂に入ったりしてないだろうな?」
「入りました」
「むわぁ~、チッなんつぅ羨ましいことを…」
さっきからずっと高憧さんのことばかり聞かされる。そろそろ渡された箱を家に置いて探検に行きたいのだけど中々終わらない。
「あの、このことは婆には内緒でお願いします」
そう言いながらこっそり階段を上がろうとしていると…
「ちょっと待て!」
服をガシッと掴まれた。後ろを振り返るとにんまり笑った顔がこっちを見ていた。何か悪い予感がした。
『内緒にしてやる。その代わりに一つ頼まれてくれよ』
頼まれたのは『ご飯を一緒に食べに行くこと』と『暇だから遊び相手になること』の一つじゃなくて二つ。どういう意味があるのか分からなかったけど、高憧さんの知り合いだし、ご飯をくれるのは嬉しいし、婆にバレるのは嫌だから素直に車に乗った。
「聞いていいですか?」
「あ? なんだよ」
「おじさんは…」
「だから、おじさんじゃねぇって言ってんだろ。俺はジョーだ、ジョーさんって呼べ。あと俺、ガキは苦手だからな」
嫌そうな顔でジョーさんはそう答えた。婆と似ている。多分、高憧さんや他の大人と違って子供だからと許してくれない感じの人だ。
「ジョーさん…俺はナナシです」
「……は?」
前を気にしながらジョーさんは、眉毛を真ん中に寄せた顔で口を開けていた。
俺の名前が信じられないみたいで「それはお前の名前か?」や「本名か?」とか何回か聞かれて、その度に「はい」と答える。
「マジかよ」
引きつった笑顔でそう言われた。何と言っていいのか分からないみたいな微妙な言い方だった。そういえば、高憧さんに初めて名前を言った時も今みたいに少し変だったような気がする。
「どういうことですか?」
「いや、那々市町って場所で名前がナナシだなんて言われたら一瞬混乱するだろ」
それを聞いた時、ジョーさんや高憧さんと同じように俺も混乱した。
「……え?」
「ん、知らなかったのか?」
高憧さんに言われた『お揃いね』に、昨日会った子供たちが俺の名前を言って笑っていたこと、全部が繋がった。今まで名前なんて誰かが自分を呼ぶための音でしかないと思っていたのだけど、まさか近くの町と同じだったなんて。
「まぁ…なんだ、名前ってのは親が願いやら想いやらを込めて勝手に決められるもんだからよ。お前の場合、婆さんだが、何かしら意味があんだろ。……なかったとしても大したことじゃねぇから気にしなくてもいいんじゃねぇか?」
ジョーさんはさっきより柔らかく困った感じでそう言った。
名前に意味があるということも初めて知った。ジョーさんの言い方からして俺のには意味がないんだろう。俺もそう思う。那々氏町で見つけたからナナシ…すごく婆っぽい。前に珍しく壁外動物の本を読んでくれた時、書いてある名前じゃなくて住んでる場所や種類、番号なんかで呼んでいたのを思い出した。
「ジョーさんの名前には、どんな意味があるんですか?」
「…わからん、俺の親父もジョーだったから俺もジョーなんだろ。意味なんてねぇよ」
父親と名前が同じなのか、呼ばれる時にどっちなのか困りそうだ。だけど、それはジョーさんと父親が親子だっていう意味になる。俺とは違う。だけど、別に意味の有る無しどっちでもいい。笑われたり、驚かれたりする方が困る。
- メモ -
『なまえ まちとおなじ へん』
- やっちゃん食堂 -
「降りろ」
車を停めた場所から連れられてきたのは昨日のご飯屋さんだった。
中に入るとお客さんは3人しかいなくて壁が茶色に汚れている。食べ物のいい匂いがするのだけど一緒に濃い油の臭いもしてくる。奥にはキッチンにいる白い服のおじさんがいて、お客さんに笑顔も作らず唯々手を動かしていた。
「おら、何食いたいんだ?」
テーブルに向かい合わせに座ったジョーさんがクイっと顎で壁を指す。見るとそこには文字が並んでいて、読んだ感じではご飯の名前っぽい。ドーナツ屋さんの時と違って文字だけだとどんなご飯が出てくるのか分からない。だから選んでもらうことにした。
「親子丼とヒレ煮定食!」
ジョーさんが食べ物の名前を叫んだ。キッチンにいるおじさんは何も言わずに手を少し上げて応える。
…
それを最後にジョーさんは肘を突いて黙り込んだと思ったらソワソワとし始めた。それでしばらく喋らないでご飯を待っていると…
「お前、高憧さんのこと…どう思う?」
まただった。
「どういうことですか?」
「なんか、好きで堪らないとか、ドキドキするとか、少年の淡い恋的なのはあったりするのか?」
「…高憧さんは優しいから好きです。ドキドキは嘘がバレそうになった時にしました。アワイコイテキナは知りません」
半分開いていた口から「お前、年は?」と聞かれた。5歳だと答えたら「まだそういうのないか…てか俺、何やってんだ…」とかブツブツ言っている。
「ジョーさんは高憧さんに何かしてもらいたいんですか?」
「あ?」
「話している時、笑顔を作ってるみたいでした。笑顔を作るのは誰かに何かをお願いする時か、何かをしてもらった時だと教わったので」
「ん~してもらいたいっつぅか、なんつぅか…お近づきになりたい?」
「仲良くしたいってことですか?」
高憧さんに箱をあげてたし、多分そうだろうと思った。それにしてもモジモジ何をそんなに恥ずかしがっているのかな。
「あぁあ~そそっ、そんな感じだ」
ハッキリとしてない返事だったけど、そういうことらしい。
「あい、親子丼とヒレ煮」
黄色いご飯が目の前に置かれる。
「いただきます」
周りに人が沢山いるのに高憧さんとだけ仲良くなりたいのは、やっぱり美人だからだろうか。いや、それだけでこんなにはならないか。
何か特別な理由が……ッうま!
ご飯を口の中に入れた瞬間、一気に考え事から引き剥がされた。
「これなんていうご飯でしたっけ?」
「親子丼、食べたことないのか?」
食べたことないというか、今まで食べた中で一番おいしい。見た目は卵とお肉を一緒に焼いただけなのに、それだけじゃない味が沢山ある。飲み込むのが勿体無くて勝手に口がゆっくりになる。
「なぁ、そんなことよりお前に頼みたいことがあんだが…」
「…えっ、何ですか?」
ボーっとしていてよく聞いていなかった。
「今、俺に飯を奢ってもらってること、ちゃんと高憧さんに伝えてくれよ」
「何かお返しした方がいいなら自分でどうにかしたいです」
「いやいや違う違う、そういうこと言ってんじゃねぇんだって」
気が立っているのか、必死になっているのか、ジョーさんはテーブルから前に出て顔を寄せてくる。
「いいか? 俺は高憧さんと仲良くなりたいんだ。だから協力してくれ」
「…いいですけど、高憧さんとジョーさんが仲良くなるのにご飯をもらった話がなんで必要なんですか?」
「子供に優しくしときゃ印象もいいだろうが。それにお前といれば話す切っ掛けになるし…てか全部が全部言わせんなよ、情けなくなるから」
そういうことか。でも、そこまでするのか。知り合ったばかりの俺にそんな頼みをするのだからよっぽどだ。
「町には他にも人がいるのに、なんで高憧さんを選ぶんですか?」
「そりゃ~…あれだよ。安産型だし、顔もいいし、優しいし、少しミステリアスな所も惹かれるし。とにかく俺にとって特別で一番ってことだ」
嬉しそうに説明された。あとで辞書で調べたけど半分意味がわからなかったし、順番を付けるのも不思議だった。だけど、ジョーさんが高憧さんと仲良くなるために俺を使おうとしているのは分かる。そこで俺は良いことを思いついた。
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