第7話 正義の味方
口元が上がっていた。意外で気持ち悪い。
「婆、何で笑ってるんだ?」
「面白いものが見れるかもしれないよ、しっかり見ておきな」
なんだ面白いものって…今からあのおじさんが面白くなるのか、それとも何か起きるのか、でも何でそんなことが分かる?
「おら、早く決めろよ! お前の対応のせいで列がつっかえてんだろ!」
ずっと怒鳴っている。今のところ何も面白くもない。
「ちょっといいですか?」
そうするとおじさんの後ろにいた背の高いお兄さんが話に入ってきた。
「この白茶リンクルってもう終わりなんですよね? 楽しみにしてたのに…」
わざとらしい喋り方だった。けど、おじさんと言っていることは同じだ。
割り込まれて少しびっくりしていたおじさんも、後から「そっそうだよ、ちゃんと詫び入れろよ!」と一緒になって文句を言い出す。
婆にとってはこれが面白いことなのか?
「昨日で終了だったんですか。残念だけど次の期間限定も楽しみだなー」
お兄さんが横の看板を読んで大きめにそう言うと、周りが急に静かになった。
「…え、きっ昨日?」
おじさんが高めの声で驚く。
実は欲しかったリンクルは元々なかったらしい。ちゃんと書いてもあって間違えていたのはおじさんの方だった。
「まぁ、このお店の常連の方々なら知っているでしょうけど…あ、でもこのアメミルクリンクルも美味しそうだ」
お兄さんはアワアワしているおじさんをちらっと見た後、キラキラした笑顔を店員のお姉さんに向ける。お姉さんの顔が赤くなっていく。
「あんだけ怒鳴っておいて…」
「マジであのハゲきもいんだけど」
「早よ消えろよ」
周りにいた他の人たちから笑い声とコソコソした声が聞こえてくる。
言われているのは酷いことだと何となく分かった。後ろにいる俺にもちゃんと聞こえるくらいだったから、きっとおじさんにも聞こえていただろう。
「ふっ、ふん。なんだよそれ、もうちょっと分かりやすくしておけってんだよ!」
口をパクパク、顔を真っ赤にさせたおじさんは大きな足音をたてながら帰っていった。
それでやっと俺たちの順番が来た。ガラスの中にはたくさんのリンクルがきれいに並べられている。さぁ、どれにしようか…
「プレーンを3つください」
婆に言われて店員のお姉さんがハサミでリンクルを摘まみ上げて袋に入れる。
3つも、いっぱい食べるんだな。じゃあ、俺は…
「これ…」
「何やってんだい? 行くよ」
「え?」
後ろを振り返ると袋を受け取った婆がここを離れようとしていた。
まだ選んでないのに…なんで? 急いで後を追いかける。
「婆! なんで俺の分、買ってくれないんだよ」
「何言ってんだい、さっき買っただろう」
「まだ選んでないだろ」
「リンクルを初めて食べるならプレーンだ。プレーンは原点にして頂点。なんにしても基本に慣れておけば、思考は固定されずに応用を楽しめる。まずは基本からだ」
何言ってるんだ。分かんないけど、もう買っちゃったなら…仕方ないか。
諦めて近くにあった長い椅子に2人並んで座った。
袋から紙に包まれたリンクルを「ほれ」と渡される。近くで見てみると本当に食べ物なのかというくらい不思議な形をしている。何で穴が空いているのだろう。
婆と一緒に頬張って食べた。
「おいしい」
勝手に言葉が出るくらい美味かった。少し硬めのスポンジみたいでボロボロ落ちるけど、まだ熱々で口の中に甘い匂いが溢れてくる。確かに婆が食べたがるのも分かる。
口の中が乾いて時々飲み込むのを休む。その間、何となく婆を見るとまた小さい機械を触っていた。
そういえば、さっきの『面白いもの』が何だったのか聞いていない。
「さっきのおじさん、酷い目に遭ってたな。待ったのに自分の好きなリンクルがないし、他のも買えないで皆にバカにされて帰ってったし」
「ん? あぁ、そうだったね。そのことでお前さんに教えといてやろうと思ったんだ」
婆はリンクルを食べながらモゴモゴと喋って、ゴクンと飲み込んで話を続けた。
「町へ行くときに必要なことを教えたと思うが…お前さん、あまりピンと来ていなかっただろう? 分かりやすい理由がさっきのオヤジと周りにいた連中さ」
今日のためにしてきた練習のことだった。決まった言葉づかいで話さなきゃいけないだとか、これから仲良くなる予定もない人に挨拶をしなきゃいけないとか、町に行くためにやりはしたけど、正直、やる理由はハッキリ分かっていなかった。
「練習通りにやらないとおじさんみたいに皆から怒られるのか?」
「そう、あのオヤジは早まった。だが、生き物も精密ではない。少しの間違えはよくあることだ。実際にあの立て看板の文字は見え辛く、あの新人店員の対応も完璧ではなかった」
仕方がないことなら、何であんなにも周りの皆はおじさんを悪く言ったんだ。気付いていなかったのだろうか。
「それならあのお兄さんがこっそりリンクルがないって教えてあげればよかったのにな」
「…はっ、それはないね」
婆はバカにするみたいに顎を突き出して笑った。
「なんで?」
「折角、正義の味方になれるというのに、こっそり言ってあの若造に何の得がある?」
別に教えてあげることであのお兄さんには損も得もないだろ。なら教えてあげた方がいいんじゃないかと思ったけど、急に関係ない『正義の味方』という言葉が出てきて頭が絡まる。
それは朝に暇つぶしで見ている『レッドクロスマン』の主人公がよく使う言葉だった。
「正義の味方? レッドクロスマンのこと?」
「…あぁ、お前さんが毎週見てるくだらない番組か。あれはただ格好のつくことを言っているだけで、今言ってるのは政治家なんかが大衆に向けて言うような正しさの物差しのことだ」
タイシュウって何かと聞くと「今、周りにいる奴らのことだよ」と目の前の通り過ぎる人たちを顎で指す。
「退屈している人間。増え過ぎた己が同種に埋もれ、発散は出来ても存分に発揮は出来ない制限された世界、鬱憤が心に渦巻いている」
さっきから分からない言葉が多過ぎて辞書の手が追い付かない。もういいや…
「それって、さっきの話の何なの?」
「基本的に人っていうのは自分を発揮させるためなら、他人を傷つけることも厭わないということだ。そのために皆、正義を言いたくて使いたくて仕方がないんだ。称賛される上に味方が多く、負けることは少ないからね。だから、あの若造はどこぞの知らないオヤジに優しさを掛けるより、皆の前で正義の味方になるのを選んだんだ」
この時の婆は自分に分からないことはないみたいな感じで話をしていた。良い感じはしなかった。
「さっきも言ったろ、人は常に人を選んでいる。お前さんもあのオヤジみたいにはなりたくはないだろう? だからこそ、教養と常識、礼節がいるんだ。わかったかい?」
今は何となく分かったように頷いておいた。でも本当は少しも分かっていない。帰りの車に乗っている間も辞書を引いて婆の言っていたことをずっと考えている。
多分、大事なことを覚えないままにすると悪役になってしまうかもしれないから、そうならないようにしろってことだと思う。
でも、わからない。なんで皆、正義の味方なんかになりたいんだ?
心に何を溜め込んでいて、何で人に損をさせる方を選ぶのか。最初に列を詰まらせていたのはおじさんだけど、あのお兄さんも悪い人なのか。
考えれば考えるほど分からない。頭が疲れて嫌になってきたな。
気づくと車の窓の外が少し赤くなっている。人がたくさんバラバラに歩いていて後ろに流れていく。
「…?」
その中に見覚えのある後ろ姿があった。あの黒い長い髪、もしかして…
通り過ぎる時、顔が見れた。お肉をくれた美人のお姉さんだ。
川が流れている方の道を曲がって行く。あっちの方に住んでいるのかな。
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