第3話 未知なる世界へ


 ‐ 5年後 ‐



 カーテンの隙間からの光で目が覚めた。


 ずるずる背中を擦りながら光を避けて、くっついている目を無理やり開ける。


 テーブルの裏、冷蔵庫の音、いつものキッチン。料理をする場所でもあって、俺の寝る場所でもある。


 頭をぶつけないようにテーブルから出て、目を覚ますために今度は光といっぱいに向き合う。それから洗面所でいつもの顔の体操、お茶のボタン、それから朝ごはんのために婆を起こしに行く。


 婆は廊下の端っこ、床に隠れている鉄の扉の奥で寝ている。


「婆、朝だ!」

「…」


 ちょっと声を掛けるだけじゃ簡単に起きてこない。でも中には危ない機械や薬があるから勝手に入ってはダメな決まりになっている。だからいつも近くに置いてある金槌で鉄の扉を思いっきり叩いて大きな音を立てる。


[ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン!]


「喧しい!」


 そうすると怒って目を覚ます。


 いつもの不機嫌そうな顔で地下から出てくるとボサボサの白い髪を全部後ろで縛って、何も言わずにお茶をズルズル飲んでキッチンの前に立つ。


「今日は食べた後すぐに出るからね」


 卵をフライパンで焼きながらガラガラした声でそう言った。


 そう、今日は近くの町に初めて連れて行ってもらえる日。ずっとこの日が来るのを楽しみにしていた。


 朝が来て、畑に水をやって、鳥の世話をして、それから海を見たり、図鑑や辞書を読んだり、画面の映像を見たり、婆の話を聞いていたりしている内に夜になって寝る。この繰り返しとは違う、俺にとって特別になるはずの一日。


 潰れた目玉焼きと野菜、ビスケットがテーブルに乗った。さっさと食べて、お気に入りの色の変わる天気Tシャツとポケットが沢山あるズボンに着替える。そして昨日から用意していた手提げバッグを持って玄関を出た。


 早く町に行ってみたい。自分ですぐに出ると言っていたくせに、こういうときに限って婆は遅い。目の前に広がる原っぱの丘の向こう。まだ見たことのないものが沢山あるはずの町を想って体が弾む。


「あ」


 遠くに車が見える。いつも婆が町に行くときに呼ぶ車だ。近づいてくる内にだんだん速くなっていって、あっという間に砂利を飛ばしながら家の前に止まる。中にはサングラスと帽子を被った男の人が乗っていて、こちらをスッと見てきた。


「は…」


 体が縮んで頭がサーっと冷たくなった。


 本当ならここで挨拶をする…そうした方がいいのだけど、気づいたら大きい植木鉢の後ろにいた。知らない人と話す時の決まりも言葉遣いも教えてもらったし、昨日の夜に頭の中で何回も練習した。なのに、嫌な感じがお腹から上がってきて動けない。


 ゆっくり片目で様子を見る。男の人はサングラスでどこを見てるかはっきりわからない。不気味だ。家で大人しく婆を待っていればよかった…いや、町にはもっと人がいる。挨拶くらいできないと。思い切って車の前まで行く…


「あの…」

「何をしてんだい。さっさと乗りな」


 話し掛けようとしたら、婆が変なものでも見るみたいな目でシレッと車に乗り込んでいった。色々思うことはあるけど、とりあえず俺も乗った。


「今日はどちらまで?」

「百貨店の方までお願いします」


 だれ?


 そう思ってしまうくらい婆の顔はニコニコになっていた。家では一度も見たことなくて凄くわざとらしく見える。


 人に何かを頼む時は笑顔を作れと教えられていたのだけれども、これくらいしなきゃいけないのか。


「よっよろしくお願いします」


 俺は顔を作るのが苦手だ。思った通りにするには時間が掛かるし、いつも体操しながら練習しても同じ顔を続けたら疲れてピクピクする。


 男の人は上についた鏡を確認しながら「はーい」と適当な返事をして車を動かす。どんどん速くなっているのが座ってて分かる。外を覗くと緑の地面が海の波みたいに形を変えながら後ろに流れて行っている。いつも見慣れているはずの景色なのにずっと目が離せない。楽しい。


 少しずつ家や壁が多くなって、町っぽくなっていく。


「婆、もう町?」

「そうだよ」


 まぁ…少し背が低くて汚れていて映像で見たのとはかなり違うけど、初めて見るものが沢山ある。


「婆、あそこのお店って何のお店?」

「…」


 色々聞きたいことがあるのに婆は小さい機械を見て答えてくれない。面倒くさい時によく使うだんまりだ。


 仕方ないのでまた窓の外を見る。


 少しずつ人も見かけるようになってきた。歩いてる人、話してる人、俺と同じくらいの子供、人がたくさんいる。不思議だ、これだけ人が一緒にいるのに誰も慌ててない。俺は婆でも分からなくて困ったりする時があるのに…


「お客さん、着きましたよ」


 そんなことを考えていたら車が止まった。もう着いたらしい。


「ありがとうございました、またお願いしますね」

「ありがとうございました」


 機械をしまって婆の顔が一瞬でニコニコに変わる。俺もお礼を言って一緒に車を降りると、また婆は顔を戻す。なんか、お面を付け替えているみたいだった。


「ほら、こっちだよ」


 婆の向かう方には他よりとても大きくてブロックみたいな建物があった。沢山の色のついた文字が壁いっぱいに書かれている。


「婆、あれなんて読むんだ?」


 一番上の文字を指さした。


「万代百貨店」

「へぇ…ここはなんの場所なんだ?」

「色んな店の寄せ集め」


 婆は大きく息を吐きながら答えた。


 万百貨店のガラスの扉が勝手に開いて、俺の口も勝手に開く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る