ぱらしゅうと

 えいがぼくたちを連れてきたのは、さっき、ぼくとえいが会った大きな建物の前だった。

 ぼくは、なにも言わずに建物を見上げる。

 くじらも、みしゃくじも、そうしている。


「このなかに、ぱらしゅうとという乗りものが用意してございます」


 えいは、おひめさまであるくじらと、神さまであるみしゃくじにむかって、ていねいな言葉づかいで言った。

 そして、役人見習いの服のふところから、かぎを出した。

 なまりの色で、重たそうで。まんなかに真っ赤な宝石がうめられていて。ひとめ見て、ただのかぎじゃないって、わかる。そんな、とくべつなふんいきをまとった、かぎだ。


 えいは、そのかぎで。

 建物の。

 重そうな鉄のとびらを、開けた――ぎぎぎぎぎぃ、と、きしむ音がする。

 この音でだれかがやってこないか、ちょっと心配になったけれど。ふと、こっちをふりかえった、えいと、目が合って。……だいじょうぶだよ、とでも言うかのような目をして、えいは、ちょっと笑った。

 そういえば。だって、今日ここの警備係は、えいだ。警備係を警備する係っていうのが、いるわけじゃないし――つまりここに、ほかのひとが来ることはない、ってことだろう。


 えいが、なかに入っていく。そのすぐあとに、茶色いひとつしばりの髪をなびかせて、みしゃくじがつづく。ぼくも入ろうと思ったけれど、くじらが歩く気配がない。なにか、こわがっているのかもしれない。……自分で逃げ出そうって言い出したことかもしれないし、いよいよ逃げることそのものかもしれないし。あるいは、このなかになにがあるか、わからないからかも、しれないし。


 ……建物のなかは、ぬらぬらと黒くって。

 ひゅおおおおと、えたいの知れない音もしていて。


 だから、くじらがこわがるのは、わかる。

 くじらはもともと、こわがりなところがあるんだ。

 でもここで、行かなくちゃ。

 行かなかったら――くじらはあすには、したくもない結婚をして、そのまま、そのまま……くじら帝国の、あとつぎに。

 ぼくなんかには、手のとどかないところに。

 くじらだって、望んでもいないところに――いかされて、しまうのだから。



 だからぼくは、くじらの手をとった。


「……行こう。くじら」


 くじらは、ぼくが手をつかむと、はじかれたように顔をあげた。

 すこしでも安心させてあげたくて、ぼくはつよく、ひとつ、うなずいた。

 ……くじらも、小さく、弱々しくだけれど、うなずいてくれたんだ。


「おーい。おふたりともー。早く来なよー!」


 みしゃくじが、よんでいる。いかなくちゃ――ぼくはくじらの手をとったまま、歩き出した。くじらがついてきてくれたから、……その歩きは、やがてかけ足になった。


 建物のなかは、暗くって。

 でも、えいが、いつのまにかたいまつをつけたようで、ちょっとは見えるところもあった。


 ……ものおきのような部屋だ。

 とても広くて、がらんとしていて。

 でも違うのは、ものなんか置いてないってことだ。

 そのかわり、ゆかが――かなあみになっていて、そこから、ひゅうひゅう、……ひゅうひゅう、風が、ふきあげてくるのだ。



 このかなあみの下は、空そのもの。

 そして雲をぬけて落ちて落ちれば、地上がある――。



 知識としては、知っていたことだったけれど。

 ……その感じは、ぼくのからだをぞわっとさせるのに、じゅうぶんだった。

 こわいのか。それとも、わくわくしすぎたのか。わからない。……両方なのかもしれない、けれど。


 くじらは、息をのんで、かたまってしまったみたいに、ひたすら、かなあみを見下ろしていた。

 みしゃくじは、おお、とおどろくような声をあげて、すごいね、と言って、うでを組んで天井を見上げた。


 強い風が、顔に当たった。

 かなあみではない場所はほんのわずかで、目の前には一面まっ暗な雲が広がっていた。



「……ここはほんとうは帝国のひみつの場所で」


 えいが、おごそかな口調で、説明する。

 えいも――こんなに空に近いところでは、……なにか、みぶるいするかのように感じるものが、あるのかもしれない。


「ここが、くじら帝国のはしでございます。くじら――伝説上の、その生きもののかたちを、かたどった帝国の、いちばんはし、さいはてでございます」


 そう、くじら。

 それは、伝説上の生きもの。青い世界をゆうゆうと泳いでいたという、でも、帝国のだれもそのすがたをじっさいに見たことはない。伝説に残る、青い世界、というのがいったいなにをさしているのかも、わかっていない。


 伝説の時代。

 かつてまだくじらという生きものが、じっさいに生きていたころ。その神々しさにひかれて、ぼくたちの祖先そせんは、くじら帝国をつくったという。


 ……あくまでも、伝説のおはなし。



「ここから、ぱらしゅうと、という乗りもので、下界に下りることができます」


 ……ぱらしゅうと?

 はじめて聞く乗りものの名前だ。


「それは、安全なのか? 危なくはないのか?」


 くじらが心配そうに聞く。


「大丈夫でございます。ぱらしゅうとに乗れば、ゆっくりと地上に下りてゆくことができます。むずかしいそうさは、いりません。くじら帝国のとくべつなのりもの。そこはもう、乗れば地上におりられるように、つくられているのです」

「ふむ……」


 くじらはまだむずかしい顔をしていた。……こわいのだろう。

 だからぼくは、えいに聞くことにする。


「それ、こわくはないんだよね」

「こわくはない。……乗りごこちも、着地も、優しい乗りものです。さぞかしふわりとやわらかいことでしょう。高貴こうきなおかたに乗っていただく場合も、じゅうぶんに、考えておりますので」


 えいも、くじらがこわがっている、ということがわかったのだろう。

 最初の言葉こそ、ぼくに向けてだったけれど、そのあとはくじらに向けて安心できるように語りかけているのが、よくわかった。


 みしゃくじも、口をはさんでくる。

 それは、そうだ。みしゃくじだって、その乗りものに、これからじっさいに乗るのだから。


「ぱらしゅうとって、どんな乗りものなわけ? 空とぶ、じゅうたんみたいなの?」


 いいえ、とえいは言う。


「からだにまきつけるものでございます。しっかと、からだから離れない。だからなおさら、安全です。……少々しょうしょう、お待ちを。いま、ためしにひとつ、ぱらしゅうとをお見せいたしますので」


 えいは、部屋のはしの箱から、ぱらしゅうとをひとつ、取ってもってきた。

 ぱらしゅうと、というなじみない名前の、見なれない乗りものは。いすがあり、その上にかさみたいなつばさが広がっていた。いすには何本ものひもがついていて、からだをしっかりとしばれるようになっている。


「……思ったより、空を飛べそうな乗りものじゃのう」

「そりゃあ、そうでしょうよ、ひめさま。空を飛びながら、地上におりてくってことなんだから」

「空を飛ぶっていうか、空をぬける……ってことだよね。それで、地上にいくんだ」


 自分の言葉で、ふしぎだ、なんか、はっ、とした。

 ……これで、空をぬけて。

 ぼくたちは。これから。

 地上に、いくんだ。



 またしても、ぞわっとした。

 こわい。わくわくする。こわい。こわい。こわい、けど……わくわくする。わくわくする。

 わくわく、する――これから、とんでもないことが起こる!




「えい。ぱらしゅうとの使いかたを、教えて」



 ぼくは言った。きっぱりと、言い切った。

 かなあみから、ふきあげる夜の空の風が――ひときわ、ぶわっと、大きくなったような気がしたんだ!



「ああ。もちろんだとも」

「本気だね。くりおね」


 えいとみしゃくじは、それぞれおもしろそうに言う。


「ほんとうに……行くんじゃな」


 くじらは、その小さな全身では、かかえきれないくらいの感情を、いだいているようで。

 だからおさななじみのこの女の子を、まもろう、ぼくは、どこまでも地上を進んでいってやろう、と思うのだった――そのことがくじら帝国にとっては裏切りの意味なんだって、もちろん、もちろん、わかっていても。



 かくして。

 ぼくたちはぱらしゅうとをからだに巻きつけ、大空に飛び出した。

 三人で、離れないように、ぱらしゅうとをしっかりと結んで。

 空をおちていくはじめての感覚。

 そんななかでも、ある意味では、いつも通りに。

 こわがるくじらをはげましながら、あれこれぶつくさ言いつづける、くみしゃくじをなだめながら……。



 これが、ぼくたちの旅のはじまりだった。






(第一章、くじらの結婚、おしまい。第二章に、つづく)

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