えい

 夜の、しずまる、くじら帝国の王宮。

 つやつやの、深いあおいろ、くじら色の宝玉でつくられた、なめらかな宮殿きゅうでん

 昼間はせわしなくひとが行き来する王宮だけれど、夜は、しずかだ。

 ときおり、ほんとうにときおり、夜の係やお仕事のだれかと、すれ違うだけ。

 ぼくはそういうときには頭を小さくさげて、えしゃくした――おひめさまであるくじらや、神さまであるみしゃくじと違って、かっこうから役人見習いだってわかるぼくは、夜中にこうして出歩いていても、あまりあやしまれない。役人見習いは、夜の仕事をおしつけられることだって、めずらしくはないからだ。

 その自由な立場に対して、いまはすごく、感謝したい気持ちだった。


 宮殿は。

 暗くって。

 でも、この国は月に近いぶん、まっくらにはならなくって。

 さいわい、きょうは満月で。

 満月の夜の天空を、すすむくじら帝国。

 あとは、建物のなかには、ときおりゆらめく小さな炎のあかりもあるし。

 だから、すすむ道は、見えたけれど。


 でも。

 王宮じゅうをさがし回っても、えいは、なかなか見つからなかった。

 なにせえいは、きょう警備係けいびがかりだから、どこにいるかわからなかったのだ。警備係の見張みはる道は、安全のために、ひみつにされるから。


 ふだんだったら、そんなふうに、どこにいるかもわからないえいを、それも深夜にわざわざ、さがそうだなんて思わない。

 なにか用事があったって、ああ、あした言えばいいやって、ふとんをかぶってそのままねてしまう。


 でも。

 いまは、ちがう。

 くじらのことが、かかっている。

 もうあしたは、結婚式なんだから。

 なにがなんでも、いま、このいまに。

 えいを見つけ出して、地上に脱走するには、どうすればいいか、きかなくっちゃ――!



 ……そう思って、どれくらいの時間、王宮を走っていたのだろう。

 息が切れたって、ひざが痛くなったって、走った。

 さがした。いろんなところを。あちこちを。えいと、すれ違ってなければいい――ああ朝日がのぼるまでに、どうか、……どうか、と願っていて。


 だから――空の神さまが、ぼくの心を、聞きとどけてくれたのだろうか。

 それとも、ふだんは行こうとなんて思わない、建物の外にだって出たことが、よかったのか。



 ぼくは、えいを見つけた。



 えいは、王宮のはしにある大きな建物の、かぎのかかったとびらの近くで、小さないすにすわって、休憩していた。

 今夜は、ここの警備をまかされているということなのだろう。


 ぼくは、息を切らしてえいの前に立つ。

 えいはぼくを見ると、すわったままぼくを見上げて、そんなにおどろいたようすもなく笑う。


「おう、くりおねじゃないか、どうした。こんなところで会うなんて。夜のお散歩か? あれ、でも、くじらさまとお会いしてたんじゃないのかよ。どうしたんだ、ふられたのか?」


 えいは、なんでもないことのように、笑いながら話すけれど。

 でも、本心はわからない。えいは、自分の心をかくすのが、じょうずな人間なんだ。


「……えいってさあ」

「うん?」

「乗りものの管理もしてるって、ほんと?」

「……乗りもの? なんの話だ。王族のかたが乗るくるまなら、おれは、そんなのは知らないぜ」

「そうじゃなくて。あのさ。……地上に、行くための」


 えいの笑顔が、消えた。

 その反応からぼくは、だいじなことを引き当てたのだと、強く感じる。


「……どこから聞いた?」

「神さま情報」


 そっか神さまか、あのかたたちもまったくなあ、とえいはつぶやいた。その顔には、もう笑顔はもどっていて。

 ぼくは、みしゃくじとのやりとりを、説明した。

 最初は、いつものよゆうある笑顔で、ふむふむと聞いていた、えいだったけれど。

 ……やがて、笑顔でありながらも、真剣しんけんなようすに、どんどん、どんどん変わっていった。


「くりおね、これはまじめな話なんだが」

「うん」

「おれは、くじらさまの結婚には反対している」

「えっ」


 いま、えいは、なんて?

 そりゃ、ぼくは反対するよ。

 でも、えいも――くじらの結婚に、反対してる、だって?


 えいは、ぽつりぽつりと語り出した。


「くじらさま、おひめさまとはいえ、まだ十歳だろう。こう言っちゃ失礼にあたるのかもしれんが、十歳の子が一生くじら帝国に閉じ込められると決められるんだぜ? だって結婚したら、そうそう帝国の外になんて出られないだろう。だからおれは、このまま一生くじら帝国でくらすことが決まってしまう、結婚だなんて、ぶっちゃけて言えば反対だな。べつの世界も、そう、たとえば地上なんかも見てきたほうがいい。……おどろくからさ」


 ぼくはおどろいた。

 新鮮すぎる、意見。ふつう、毎日くじら帝国でくらしていて、聞くことなんてない、意見。

 えいは、そんなことを考えていたのか。

 えいがそう思っているなんてことだって、もちろん、いままで一度も聞いたことがなかったから。



 ……その、ようすから。

 どこかすごく遠くを見つめるひとみから。

 ぼくは、もしやと思って、言ってみた。


「……もしかしてえいは、地上に行ったことがあるの?」


 それはその場の思いつきだった、はずなんだけれど。

 意外にも。えいは、笑ってうなずいた。


「三年前、ちょうどおまえとおなじ十二歳のときに一度な。すごい体験だった……いまでも、忘れられないよ」

「地上に、行ったの」


 ぼくの声は、しぜんとふるえていた。

 自然。けがれた土地。不毛の大地。

 でも地上よりずっとずっとひろくてどこかでもつづくという。

 そんなところに――えいが、行ったことが、あるだなんて!


「ああ。行ったよ。……おれは、もどってきちまったけどな」

「どうして。つれもどされたの」

「……まあ、そんなとこだ」


 えいは、あいまいに笑って、ごまかした。

 その理由が、気にならないわけではなかったけれど――えいのその笑いかたは、これ以上ふみこんでほしくないという気持ちをあらわしているようで、ぼくは、もっとつっこんで聞こうかどうかいっしゅん悩んだあとで、やめた。

 ……それに、いまのぼくには、あんまり時間がない。

 急がなければ――くじらのために!



「じゃあ、えい!」



 ぼくは、えいの肩をつかむ。



「ぼくとくじらを、くじら帝国から出してよ! このままだと、ぼくとくじらは……」

「わかったよ」


 えいは、なにか決心したような顔をして、うなずいた。


「おまえとくじらさまを、くじら帝国から出してやる。だが……覚悟かくごは、あるか? 地上は、けがれ、不毛の大地となっている。そこでおまえは……くじらさまを、まもれるのか?」

「約束する。まもる。だから、だから……」

「そうか。……じゃあ、いいかな」



 えいは、どこか悲しそうに笑った。



「おまえは、おれみたいには、ならないだろうから」



 それ、どういう意味――ぼくがそう言うより早く、……えいは、立ち上がって、ざくりざくりと、じゃりをふみながら、こちらに背中を向けて歩きはじめてしまったのだった。

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