みしゃくじ

 そこで待っててね、とくじらに言い残し、ぼくは走った。



 ――くじらの手をとって、逃げる?

 とんでもないことだ。でも、ぼくのからだは――信じられないくらいに、軽かった。

 まるで、こうするのが、はじめからわかっていたみたいに。

 くじらの手をとって、地上に行く想像は――ぼくを、こんなにやたらと、わくわくさせたんだ。



 向かうは、みしゃくじのところだ。



 この国には、神さまが何柱なんはしらか、いる。

 はしら、というのは神さまを数えるときの言いかた。人間に対するみたいに、何人なんにん、とは言わないってわけだ。


 みしゃくじはそのひとりで、儀式ぎしきのときにおどったり、農民のうみんたちをはげましたりする役目をになっている。

 あしたのくじらの結婚式でも、舞うことになっているはずだ。神聖な着ものを着て、うやうやしく。同時に、どこかすました顔で。

 ふだんのお調子ものな感じなんて、どこかにふっとばしてしまうくらいに、きっと神さまらしいすがたなのだろう。


 でもみしゃくじはぼくにとって、神さまと言うより近所のお姉さんといった感じだった。

 なにしろむかしからよく知っているし、仲もよい。

 もちろん、みしゃくじが神さまだってことも、ぼくはよく知っているけれど、でもやっぱりなにより、それより先に、みしゃくじはぼくの、おさななじみ。

 ぼくよりふたつ年上、いま十四才のみしゃくじは、小さいころからぼくのめんどうを見てくれて、ぼくはなにかと、みしゃくじにたよってきた。


 それで今回も、相談しようと思ったのだ。




 神さまたちのねむる建物は、水の中庭からそう遠くにあるわけではない。

 ぼくはみしゃくじの部屋にたどりつくと、こんこん、ととびらを叩いた。


 しばらくすると、ばんっ、と、いきおいよくとびらがひらいた。

 そこには、ねおきのみしゃくじがいた。ふきげんそうで、ねむそうだ。


「……なに? くりおね? どしたの、こんな時間に?」

「大変なんだ!」


 ぼくは、さけんだ。みしゃくじはぼくのようすを見て、はっとしたようだった。「ちょっとしずかにしてよ。ほかの神たちが起きちゃう」と注意しながらも、手まねきして、ぼくを部屋に入れてくれた。

 神の部屋は、ひとりにひとつ、わりあてられている。

 でもおとなりどうしだし、あんまりうるさいと、ほかの神が起きてしまう可能性かのうせいは、じゅうぶんに考えられる。


 みしゃくじの部屋は、ごちゃごちゃとしている。びんや流木りゅうぼくや、つやつやした、がらす、石、貝がら。どこで拾ってきたんだろうっていうものたちばっかり。

 そういったがらくたで、うめつくされているのだ。

 がらくたに囲まれてると落ち着くんだ、とみしゃくじはいつも言う。ぼくには、よくわからない。みしゃくじは、やっぱり、なんだかんだで神だから、そんな変わったことも思うのだろうか。


 みしゃくじはベッドにすわり、ぼくにも、そのとなりにすわることをすすめた。ぼくは、すなおにそうする。


 みしゃくじのひとつしばりの髪は、明るい茶色だ。ひとみもおなじように茶色い。神だから、黒髪で黒いひとみのぼくたちとは違うのだろうか、とぼくは日ごろから思っている。ふつう、この国のひとたちは、みんな黒髪で黒いひとみだ。



「で? どうしたの、くりおね?」

「帝国から、脱走したいんだ」


 ぼくはそのまんま言ってしまった。

 ぼくも、あせっていたのかもしれない。


 とんでもないことを、いきなり、言い出したから。

 はあ、とみしゃくじは理解できないといったように顔をしかめた。

 ……ぼくが、冗談じょうだんでも言っているのか、と思われたのかもしれない。


「ほんとにどしたのよ、いきなり」

「くじらが、結婚しちゃうんだ!」


 そりゃそうでしょ、と、みしゃくじはさらに顔をしかめる。


「そりゃ、結婚するよ。あしたじゃない。私も、おどることになってるしさ」

「でも、だって、くじらは……!」


 そこで、みしゃくじは、思いついたように言った。


「そっか。くりおねは、いまからでも姫さまの結婚を阻止そししたいんだ」

「そし、って。止める、ってこと?」


 みしゃくじも、むずかしい言葉を使うのが好きだ。どうにか、いまのわかったけれど。なにを言っているのかわからないときも、ときどきある……。

 えいといい、みしゃくじといい。ぼくもそのくらいの年になったら、そういうむずかしい言葉ばっかり使うようになるのかな? 想像しても、しっくりこないけれど……。

 あ、でもそういえば、みしゃくじは前に言っていたな。

 神というのはむずかしい古文書こもんじょをたくさん読むためにいっぱい言葉をおぼえるらしい、って。……みしゃくじは、だからかな?

 そういえば、えいも本を読むのが好きで、仕事のないときとかは集中して本を読んでいるところをよく見かけるし、


「そうだよ。そうなんでしょう」

「……どうしてわかるの」

「だって、くりおね。顔に書いてある」


 にやり、とみしゃくじは笑う。顔に書いてある? ぼくはあわててほおに手を当ててみたけれど、さわっただけじゃ、なにが書いてあるかなんて、わからない。でも、くじらも、えいも、そんなことは言ってなかったぞ?


 みしゃくじが、急に声をたてて笑い出す。


「……あは、あはあはあは。そういう意味じゃないってば。くりおねって、ほんとからかいがい、あるねえ」

「こんなときに、からかわないでよ」


 ぼくは両手のこぶしを、ひざのうえでにぎりしめた。

 すると、みしゃくじは、ごめんごめん、と言って大笑いをひっこめてくれる。


「ごめん、ごめん。くりおねにとって、くじらひめさまのことは、笑いごとではすまされないものねえ」

「……いけないことなのは、わかってるんだ。でも。くじらが。ぼくに、言ったんだ……」


 ぼくは必死で、みしゃくじに説明した。

 くじらが、ぼくに、助けをもとめたこと。

 みしゃくじは、話を聞くうちに、うなって、うでを組んでいた。


「うーん、脱走ねえ……脱走ってことは、下界げかいに下りるってことでしょ?」

「……まあ、そうなるんだよね。それで、地上のことなら、ほら、……神さまがくわしいのかな、って思って」

「くわしいよ。けがれを知るのも、神の仕事だもん。それでね。いわくね。……下界は、けがれているから、おりてはいけない」

「わかってる……」

「それに、結婚するってだけで、さわぎすぎなんじゃないの、ひめさま」

「そんなことはない!」


 ぼくは、さけんだ。


「結婚したら、もうくじらは、おひめさまではいられなくなるんだ。くじら帝国のあとつぎになる! 好きでもない、はじめて見るひとと、……結婚して」


 ぼくは、気がついたら。

 情けないけど、みっともないけど、涙をひとつ、ぽろり、とおとしていた。


 みしゃくじはしばらくのあいだ考え込んでいたが、やがて言った。



「……うん。でも、私もいっかい下界に下りてみたいとは思ってるんだよねえ……一生ここで過ごすのは、さすがにいやだし」

「じゃあ!」

「いいよ。協力してあげる。あした姫さまの結婚式でおどるより、下界に行ったほうが楽しそうじゃない」

「ほんとうに?」

「ほんと。……くりおねがそんなふうに泣くところなんか、見せられちゃあね、神としては、どうにもしないというわけにも、いかないわけよ」

「ありがとう!」


 ぼくは、もっと泣いてしまいそうなほど、うれしかった。

 みしゃくじがいっしょにいてくれれば、けっこうこわいものなしだ。


 みしゃくじは、あわてたようにつけ加える。

 こころなしか、そっぽを向いて。


「誤解しないでね。姫さまのためじゃないし、くりおねのためでもないよ。私は、私の好奇心こうきしんで下界に下りるんだ。まあ、いい機会きかいかもしれないね。思い立ったが吉日きちじつ、とも言うし」


 みしゃくじは、なにか協力してくれるときに、こうやってぶつくさ言って、すねるふりをするくせがあるひとなんだってことを、ぼくは知っていたから。

 だから。うん、わかったよ、とぼくはうなずく。

 みしゃくじの言うその理由そのものは、正直よくわからなかったけれど、でもとにかく、みしゃくじが協力してくれるっていうのはわかったから。



「じゃあ、実際にどうするかだけどねえ……くりおね、えいって子がいるでしょ」


 いるもなにも、ついさっき会ったばっかりだ。


「うん、えいがどうしたの?」

「これはあくまで神さま情報なんだけど、えいはたしか、乗りものの管理かんりもしているはずだよ。相談してみれば?」



 ――神さまって、やっぱり、たのもしい。

 神聖であると同時に、けがれを知る仕事だから。

 だから――地上のことや、その行き方も、よく知っているのかもしれない。


 ぼくはそこまでわかって、たのみに来たわけではないけれど、でも、みしゃくじにたのみに来て、ほんとうによかったって思った。


「わかった!」



 ぼくは言うと、ありがとう、と言い残してみしゃくじの部屋をあとにした。

 せわしないなあ、という、くすりと笑ったような、のんきなみしゃくじのつぶやきが、最後に聞こえた気がした。

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