くじらの涙

 炎の明かりに照らされた水の中庭。

 みずうみのそばの長いすに座って、くじらはうつむいていた。


「……くじら」


 息を切らしたぼくがよびかけると、くじらはふわりとふり向く。

 長いおさげの黒髪くろかみ、ぱっちりとした黒いひとみ――大好きなくじらの、見慣れたすがただった。



 でも、いつもと違うのは……。



「くりおね」


 強気なはずのくじらが、ぼくのすがたを見たとたんぎゅっと顔をゆがめて泣き出したことだ。ぼくはくじらの隣にすわり、その顔をのぞきこむ。歯をくいしばって、くじらはなみだをぽろぽろ落とし続けている。


 ぼくはさんざん迷ったあげく、けっきょく、くじらの肩をぽんぽんと叩いた。

 くじらは、しばらく、うっ、うっと泣き続けていたけれど、やがてちょっと落ち着いたようで、ぼくの肩をそっと外した。


「……すまぬな」

「なにが?」

「こんなすがたを、見せてしまって」


 どきり、とした。

 申し訳なさそうに笑うくじらは、炎の明かりに照らされて、とてもきれいだった。

 そっか、およめさんなんだもんなあ、と思ってぼくはまた、勝手に落ち込む。


「そんなこと、気にしないでよ。ぼくはそれより、くじらが、心配で」

「くりおね」


 くじらに、じっと見つめられる。ぼくはますます、どぎまぎしてしまう。

 くじらは十歳、ぼくより二歳も年下なはずなのに、どうしてたろう、ときどきぼくをどきどきさせる。



 くじらのくちびるが、動く。



「わらわは、くりおねに感謝している」

「え、」


 とっさに返事ができなかった。くじらに見とれていたっていうのもあるけれど、くじらがとても言いそうにない言葉だったから。

 感謝している、なんて。


「くりおねは、幼少ようしょうのころよりわらわの遊び相手をしてくれた。くりおねがわらわの、いちばんの友であった。結婚すれば、くりおねと遊ぶこともかなわなくなるであろう。どころか、話すことさえ控えよとの父上からのお言いつけじゃ。わらわは、そんなのは、嫌じゃ。くりおねと、もっといっしょにいたいのじゃ……」


 くじらは言いながら、また顔をおおって泣きはじめてしまった。

 ぼくはふたたび、その肩を優しく叩く。

 そう言ってもらえるのはとても嬉しかったけど、結婚前夜のいま言われると、嬉しさよりもせつなさが勝った。


 しばらくすると、くじらは顔から手を離してぼくを見つめた。なにか強い意志のこもったひとみ。


「くりおね、お願いじゃ」

「なに?」

「わらわを、ここから連れ出してくれぬか?」



 脱走だっそう――。

 その言葉が、頭に浮かんだ。

 逃げること、だ。それも、勝手に、ほんとうに、自分勝手に。



 くじらのためだ。ぼくは真剣に、考えてみる。

 くじら帝国は、空に浮かんでいる。

 だから逃げ出そうにも、逃げるための乗りものがないと逃げ出せない。



 でもそれは、逆に言えば、乗りものさえあれば――?



「だめか、くりおね……?」



 ぼくをすがるように見る、くじら。

 だめなんて、言えるわけがなかった。

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