第40話 本音

葉菜は下ネタをよく言う。

もっとも、それは俺に対してだけで、女友達にすら言うことは無かったが、恐らく今回も、そっち系の話になるのではないか。

「私は以前、もう一人でも生きていけるって言ったわよね?」

あれ? いつものように下ネタを交えて、俺をとりこにする的な話じゃ?

「あなたの愚息が無くても道具さえあれば一人で生きていける、的な意味じゃ無いわよ?」

「そこまでは思いもつかなかったよ!」

まったくコイツは、どこまで本気なのか。

「一人でも生きていけるけれど、でもね春平、それでも私は、春平と生きていきたいの」

葉菜が言ったことは……俺が思っていることと同じだ。

だが、まるで噛んで含めるようにゆっくりと話すものだから、何かをたくらんでいるように見えなくもない。

「今から本心をさらけ出すけど、覚悟はいい? もう引き返せないわよ?」

いったい何を言う気だ?

もしかして、俺に対する不満や怒りをぶちまけるつもりなのだろうか。

それならそれで、葉菜の抱える本心とやらを、俺は謙虚に受け止めたいと思う。

「だいたい私は、けっこう素直に春平と接しているつもりだけど、それでも、強がったり負担をかけないように我慢してる部分もある」

うん、それは本当にそうなんだろう。

下ネタを交えて好意を表してくれたり、何だかんだと要求してくることはあっても、俺を嫌な気分にさせたり、不機嫌さをぶつけてくることは滅多に無かった。

「別れてから三年近く、私がどれだけ……」

唇を噛んで、恨みがましい目でにらんでくる。

「……もう離れちゃやだ」

「え?」

口調が変わり、表情が幼くなる。

怒っているように見えるけど、あどけないものにも見える。

演技? 甘えたりねたりすることで、俺の自尊心を満たし、庇護欲を目覚めさせる作戦?

でも本心って言ってたし?

「春平がいなきゃつまんない! そばにいなきゃ嫌なのに、どうしてそんな意地悪するの!」

駄々っ子!?

炬燵こたつの中で、足をバタバタさせる。

ちょ、痛い、蹴るな!

「だいたい私が何でこんなツライ思いしなきゃいけないの! ずーっと子供の頃から……ずっと一緒だったのに……別れるなんてヒドイじゃない! 春平のバカぁ!」

泣き出した!?

「手をぎゅっとしてくれなきゃ眠れないし、寂しくてしんじゃうー!」

一人で生きていけるとは!?

「春平のアホー、バカー!」

「こら、ミカンを投げるな!」

「ひぐっ、ぐすっ、春平ー、いなくなっちゃやだぁ!」

子供みたいに手を目に当てて泣き出した。

涙が、その可愛らしい指を伝って落ちるくらい、とめどなくあふれてくる。

「もうやらよぉ、春平ー」

……こんな葉菜を見るのは、いつ以来だろう。

努力して努力して、それでも上手くいかなくて諦めかけたときに、葉菜はこんな風に泣いた。

あるいは、何度も繰り返された手の手術の際に、自暴自棄になって俺に感情をぶつけてきたとき。

癒合した部分を切り離したり、指の形を整えるためのそれは、期待したほどの答を連れて来たりはしなかった。

まだ幼かった葉菜は、モミジの葉を太陽にかざして透かすように、手のひらを空に向けて広げたかっただけなのに。

俺は褒めたり慰めたり励ましたりして、そんな葉菜に笑顔が戻るのを待っていたっけ。

そうやって俺は、自分の無力感に打ちのめされながら、葉菜が笑ってくれたときは万能感に満たされたっけ……。

葉菜の笑顔が俺の全てであったことを思い出す。

葉菜が本音と弱さを曝け出したら、俺は微塵も逆らえない。

全ての思考が葉菜に占有されて、心が葉菜で満たされる。

葉菜が泣いたときには俺はそばにいたいし、葉菜を守るのは俺でありたい。

葉菜と一緒にいて、笑い合えるのは俺でありたい。

……葉菜の言った通りになった。

もう迷いなんか生じないし、洗脳に等しい強固さで、俺は葉菜の傍にい続けたいと思わされる。

いつだって葉菜の笑顔を見ていたいと思わされる。

俺は、改めてちゃんと言わなきゃならない。

どうあらがっても、結局、答は一つしか無かったんだ。

「俺は、葉菜にはもっともっと幸せになってもらいたいと思ってたし、その資格があると思ってた」

葉菜はうつむいて泣きながら、それでも俺の声に耳を傾けているみたいだった。

「でも、幸せの大きさなんて測れないし、俺の考える幸せが、葉菜の幸せとは限らない」

例えば、俺みたいな中途半端な人間といることが、葉菜の幸せだったりすることもあるわけだ。

「葉菜。えっと、俺の方から振っておいてこんなこと言うのは厚かましいけれど……葉菜が好きです。また付き合ってください」

俺は頭を下げた。

「ふぇ?」

泣きらした、でも童女みたいな目をして葉菜は俺を見た。

「俺は葉菜と生きていきたい」

言葉に出してみて初めて、ずっとそう言いたかったのだと実感する。

「ふっ……ふふふ」

「葉菜?」

「まんまと……わらしのじゅじゅちゅーにはまったわね」

私の術中って、そんな鼻水垂らした顔で言われても……。

「迫真の……演技に、騙された気分はど……うっ、ぐす、うぁーん!」

また泣き出した。

変わらないのだ。

大人になって表面を取りつくろって、どんなに堅固な鎧を身にまとってみても、俺だけは葉菜の弱さに触れられる。

俺は葉菜の手に触れ、そして握り締めた。

俺は葉菜が泣き止むまでずっと、手と手を重ね合わせた。


「条件があるわ」

泣き止んだ葉菜は、いつもの力強さを取り戻して言った。

顔はひどい状態だったけど。

条件というのは、二人がやり直すための条件なのだろう。

これは俺が葉菜を悲しませた上に、更に自分の都合でまた付き合いたいと言ったのだから仕方ない。

どんな条件も甘んじて受けよう。

「もう二度と、別れ話をしないと約束すること。以上」

「え? それだけ?」

「私からするのはオーケーよ?」

「それはまあ……」

あくまで葉菜は自由であるべきだ。

だからその条件に異論は無い。

「しゅんぺー」

あ、騒がしくして起こしてしまったか?

有希が布団から身体を起こし、こちらを見ていた。

さっきよりも顔色は良くなったように見える。

「有希、調子はどうだ?」

食欲があるなら雑炊を温めて、風邪薬も飲んでもらわなきゃ──

「婚約おめでとー」

は? 夢でも見てたのか?

「ありがとう、有希ちゃん」

は? 葉菜も何を言ってるんだ。

……あれ?

別れ話をしないということは、基本的にはずーっと別れないということで、別れないということは、添い遂げる?

え? それって──

「婚約じゃないか」

ていうか結婚?

葉菜はご満悦な様子で俺を見てうなずいた。

「朝になったら、お父さんに電話してね」

笑顔で言う。

いや、ちょっと、そんな軽く言われても、心の準備というものが──

くそ……いい笑顔だ。

努力に努力を重ね、何かをやり遂げたときに見せる、眩しいような笑顔だ。

その笑顔を見せられたら、俺はもう、何も言い返せないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る