第37話 届いて、届かないで

雨の中、まずは自分の家に帰る。

本当なら今にも駆け出して葉菜の部屋へと行きたいところだけど、先にしなければならないことがある。

俺は時計を見て少し躊躇ためらいつつ電話をかけた。


雨音を聞いて、コンビニに行こうか迷っていると電話が鳴った。

電話をかけてくるなんて珍しい。

今夜はシフトに入っていたはずだし、何かあったのかと不安になる。


時刻は深夜の一時過ぎだ。

迷惑かと思ったが、今日は土曜日だし、アイツのことだから起きているだろう。

でも、呼び出し音が三回鳴って出ないようなら電話を切ろうと考えていると、二回目の途中で呼び出し音は途切れた。


「はいはーい」

不安を吹き飛ばすように、努めて元気な声で電話に出た。

元気なのが私の取り柄だ。


元気な声が耳元で響く。

寝起きの声じゃないことにホッとしながら、いや、コイツの声にはいつもホッとさせられていたな、なんて思う。

「あ、こんな夜中にごめん」

対して俺の声は、いつも素っ気なかったかも知れない、などとも思う。


優しい声が耳元で響く。

緊急事態とかでは無いようで、そのことにホッとしながら、あれ? いつだってこの声にホッとしてたよね? なんて思う。

「ぜんぜん構わないよ。てかどしたの?」

無性に声が聞きたくなって、なーんてことが……あるわけないよね?


「いや、まず最初に話しておかなきゃと思って」


あ、そういうこと?

自分の察しの良さに苦笑が漏れてしまう。

でもまずはふざけておこう。

「判った。部屋に行けばいい? どこかホテル?」


冗談で言ってるのは判ったが、ツッコミを入れる気分でもない。

「いや、そうじゃなくて」

かといって気の利いたセリフも思い浮かばない。


あちゃ、真面目に返されてしまった。

わーっと盛り上がって、軽いノリで話してもらいたいんだけど、あなたには難しいかな。

うん、でも大丈夫。

「しゅんくん」

そう呼ぶのは、これを最後にしよう。

よし、じゃあスイッチを切り替えるね。


最近、そう呼ばれることにやっと慣れてきた呼び名。

ちょっと甘えるような響きが、いつもくすぐったいような気持ちにさせてくれた。

……少し、息を吸い込むような気配が伝わってきた。


「さ、田中っち、おめでたい報告があるっしょ。詩音ちゃんに話してごらん」


詩音の口調が変わって、少し戸惑う。

けれど意図は判った。

ずっと葉菜のことを「彼女さん」と呼んできた詩音は、俺が話す前に察して、「彼女」であることを辞めたのだ。


言い出すことを躊躇うような息遣いが聞こえてくる。

躊躇うってことは、それなりに私を想ってくれてたってことだから、ま、喜ばしいことだよね。

彼女さんと駄目になったら、あわよくば、なんて考えなかったわけじゃないし、私は田中っちが考えてるほどいい子じゃないし?

さ、遠慮はいらん、一思いにあっしを殺せぇ。


「俺、葉菜とやり直そうと思う」

一からってわけにはいかない。

積み上げてきたものが多すぎるし、重なっているものが大きすぎる。

でも、成り行きで当たり前のように繋がっていた関係じゃなくて、ちゃんと想いを伝えて、改めてその結びつきを強くしていきたい。


ぐはっ!

覚悟はしていたのに吐血しそうな破壊力。

負けるな詩音! 立ち上がれ詩音!


「詩音には、感謝しかない」


「いやいや、あっし、何もしてなくない?」

仮に付き合うことで、彼女さんが嫉妬して奮闘してくれるかと思ったのに、何だかおとなしく受け入れちゃったみたいだし?

下手すりゃ彼女さんを悲しませただけなんじゃ?


「いや、お前のお蔭で色んなことを見つめ直せた」


「例えば?」


「お前が葉菜を受け入れてくれたことで、当たり前みたいだった葉菜の存在の大きさに気付けた」


「ぐはっ!」

そこは狙い通りのはずなのに、効果覿面てきめんすぎてダメージがおっきい。


「え?」


「いやいや、何でもないっす!」


「詩音という存在があったからこそ、本当の繋がりって何だろうって考えるきっかけになった」


「ぐぼっ!」


「え?」


「いやいや、なんのなんの! あっしの目論見もくろみ通り!」


「ホントに、詩音は良くできた彼女だ」


「別の意味でぐはっ!」


「は?」


「いやいや、何でもないっす! もう、詩音童貞のくせに何言っちゃってるのー」

よし、なんか凄いこと言っちゃったけど、このパワーワードの勢いで明るく乗り切っちゃえ!


もの凄い造語が出てきた。

素人童貞的な使い方で詩音童貞?

それはつまり、葉菜以外の世界中の女性童貞と言うのと同じ意味であり、もはやただの童貞のような気がしてくる。

「えーっと、一応というか、ちゃんと言っておきたいんだけど」


「さあ来い!」


「え?」


「いや、続けて続けて」


「俺は葉菜とは一度ちゃんと別れてて、それで詩音と付き合ったんだ」


「え?」


「だから、俺としては詩音はれっきとした彼女で、その上で、また前の彼女とよりを戻す酷い男だ」


「な、何言ってんの。最初からその予定だったし!」


「うん。だから詩音は俺みたいなの彼氏にカウントしなくていい」


「いやいや、元カレの幸せを喜ぶのは元カノの務めだし!」


……そんな務め、聞いたことねーよ。

どれだけ良くできた元カノだよ。

「……ありがとう」

それしか言葉が無い。


私は、葉菜さんを見たときのことを思い出す。

ペロを撫でる優しい指。

それを見る田中っちの優しい目。

紙袋の中の手編みのマフラーと、私に向けられた葉菜さんの笑顔。

あのとき、私は一瞬で葉菜さんを好きになったんだ。

私は私の好きな人同士が仲良くすることに、何の不満も無い。

でも、少しだけ意地悪を言おう。

「田中っち」


「ん?」


「男は、抱かずに別れた女には未練が残るって、ばっちゃが言ってた!」

このくらい、言っていいよね?


「うん、そうだな」


ぴえん。

半分冗談だったのに、また真面目に返されたー。

「にひひー」

でも、それでいっか。

自然に笑いが出てくれたし。


電話の向こうから、笑い声に混じって雨音が聞こえた。

「詩音? 窓、開けてるのか?」


「ん、お風呂上がりで、ちょっと身体が火照ってるから気持ちいい」

冷たい雨が、ほほを濡らすのは気持ちいい。


「風邪ひくなよ?」


「ん」


「ずっと、風邪ひくなよ?」


「うん、うん!」


「じゃあ」


「うん、またね」


「ああ、また」


電話を切った。

窓の外から聞こえてくる雨音のせいで、まだ電話が繋がってるみたいに思えた。

雨音の向こうで、何か聞こえた気がした。


電話が切れた。

またね、か。

お幸せにって、言えなかったなぁ。

でも、それは確定事項みたいなものだから……。

私は、雨を名残惜しむみたいに、静かに窓を閉じた。

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