第36話 些細なこと

昔から、喧嘩には慣れている。

葉菜をバカにする奴、葉菜をさげすむ奴には容赦しなかった。

葉菜を守るため、なんていうカッコいいものじゃなくて、ただ俺が腹が立ったから、ただがむしゃらに向かっていくだけのものだった。

小学校三年生くらいだったろうか、そんな俺に葉菜は、「暴力は嫌い」と言った。

それでも俺は自分を抑えられなくて、葉菜に隠れて、そういう奴らに制裁を加えた。

喧嘩には慣れていても、強いわけじゃ無かった。

相手は複数だったり、年上だったりすることも多かったから、寧ろボコボコにされることもしばしばだった。

れ上がった俺の顔を見ても、葉菜は何も言わない。

ただ強い眼差しで、静かにじっと、俺を見ていた。

そんなことを中学まで繰り返した。


高校生になると、さすがに周りも大人になって、あからさまな蔑みや中傷は無くなった。

驚かれることや同情は、まあ仕方ないことだ。

嫌悪や忌避きひは……それは葉菜を傷つけることではあったけれど、彼らに葉菜を攻撃する意思は無かったから、俺は何とかこらえられた。

もう子供の喧嘩では済まない年齢になっていたし、下手をすれば傷害事件になってしまう。

このまま平穏に大人になって、周りも大人ばかりになれば、そう思っていた。

でも、幾つになってもガキのままな奴はどこにでもいる。

大学生にもなってそんなガキでいる奴を、俺は容赦なく殴った。

幸い、大ごとにはならなかったが、自主退学という形を取らざるを得なくなった。

そして今また、俺は人を殴ろうとしている。

こんなことを繰り返していれば、いつか葉菜に迷惑をかけてしまうと思って離れたのに、結局、大人になれていないのは俺自身だった。


「違和感、無かったんすよねぇ……」

今にも殴りかかろうとしている俺に向かって、穂積は驚くほど静かな声でそう言った。

「最初は、他の女が酒をいだりしてるのに、森崎さんは一切やらないし、美人だからお高くとまってる無愛想女だと思ったんすよ」

俺は、穂積の胸倉をつかむ腕の力を弱めた。

穂積が何を語り出すのか、聞いてみたくなった。

そう思わせるくらい、穂積の口調はどこか優しかった。

しばらく観察してると、この女は不愛想なんかじゃなくて、ただ男慣れしてないだけじゃないかって判ってきて、じゃあ落としてやろうなんて思ったんすけど」

葉菜は口ではああ言っていたけど、恐らく合コンの場ではおとなしかったに違いない。

「その頃になって、やっと気付いたんです」

穂積は自嘲気味に笑い、そして続けて言った。

「……指のことに」

パッと見、葉菜は違和感なくはしを使う。

字は俺より綺麗だし、絵も俺より上手い。

トランプの扱いも見事だし、料理も、最近は手編みだってこなせるようになった。

苦手というか、どうしても人と同じように出来ないのは、あやとりだったり、縦笛たてぶえなどの楽器のたぐいだろうか。

ジャンケンは、他人とはやりたがらないけれど、俺とはよくやった。

三本の指で表現するそれは、パーもチョキもグーも、とても可愛らしいものだ。

葉菜の手は努力のかたまりであり、強さの塊でもあり、そして、遠慮とおびえと、愛らしさの塊だ。

「箸を使って何かを食べるとき以外は、手は常にテーブルの下にありました」

それは、半分は無意識的な行動だと思う。

そでが長めの服を着たり、馴染みの無い店で買い物を避けるのは意識的なものだが、意識しないところでも、そういった行動をよく取る。

「場が盛り上がって、みんなが手を叩いて笑うような状況の中で、一人だけ手を叩いてませんでしたけど、ぎこちなく、でも精一杯に笑ってました」

穂積が目を伏せて、再び視線を上げた時には、どこか遠くを見るような目をしていた。

「右手の小指に、女子大生がするには可愛らしすぎる指輪があって、ああ、この人は女の子なんだなって」

「女の子?」

「女として着飾るんじゃなくて、打算とか駆け引きとかも無くて、もっと幼い……たぶん、ずっと守ってくれる王子様みたいな人を待ってる、みたいな」

「……」

「ああ、この人は、俺なんかじゃ駄目だなって、がらにもなくそう思ったんすよ」

俺はまだ穂積の胸倉を掴んでいたことに気付き、慌てて手を離した。

「穂積……」

「ちょ、アンタ何で泣いてんすか!?」

「だって、お前が葉菜のことをそんな風に……」

穂積がまた自嘲気味に笑う。

「正直、田中さんにムカついたんすよ」

「え?」

「田中さんが誰と付き合おうと、俺がとやかく言うことじゃ無いんでしょうけど、あんな人を振って、仮カノとかふざけんなよって」

そう思われても仕方がない。

だから俺は何度もうなずきながら、涙をぬぐった。

「だからつい、憎まれ口を叩いてしまいました。すみません」

「いいんだ穂積、俺、葉菜のことになるとバカになるから、俺の方こそほじゅみに……」

「だから泣かないでくださいって! キモいっす!」

「……ごめん」

「で、聞いていいのか判りませんけど、田中さんがあの人をどれだけ好きか判ったんでもう一度聞きます。何で別れたんすか?」

「……いや、今お前が見た通りだよ」

「えっと……泣き顔がキモいから?」

「ちげーよ! こうやって直ぐ理性を無くして殴りかかるからだよ!」

穂積はキョトンとする。

「いいじゃないですか。ふざけたこと言う奴がいたら殴ってやればいいんすよ」

なんだ、そんなことか、といった感じに軽く言ってのける。

コイツ、事の重大さが判らないのか?

「子供の喧嘩じゃないんだし逮捕だってあり得るだろ。もしそうなったら葉菜に迷惑がかかる」

人が真剣に心配してることなのに、あからさまな溜め息を返された。

「別に迷惑なんて思わないんじゃないっすかね」

「いやいやいや」

「あの人なら、仕方ないなぁ、とか思いながら待っててくれそうっすけどね」

……やっぱり軽い。

軽いけど、言ってることは当たっている気もする。

「田中さんは頭が固いんすよ。俺みたいに浮気でも無ければ性格の不一致、価値観の相違でも無い。些細ささいなことっすよ」

そうなのだろうか?

「まあ世間的には前科者ですから大したことっすけど」

「やっぱそうじゃねーか!」

「世間と天秤てんびんにかけても理性が飛ぶんなら、仕方ないっすよ。まあ、ただのバカって気もしますけど、それだけ大事に思うなら、どこかでセーブ出来るっしょ」

穂積の言葉を聞いていると、何だか簡単なことのように思えてくる。

そして、とにもかくにも葉菜に会いたくなってくる。

もう一ヶ月以上、会っていない。

こんなに長い期間、葉菜に触れず、その声を聞かないのは初めてのことだ。

「俺、今夜は後半、ワンオペのつもりだったんすけど」

「え?」

「田中さん、昼から入ってるっしょ? 後半は一人でも仕方ないかなって」

「いや、でも」

「なんか店長が、ワンオペだと特別に手当を付けてくれるって言ってましたし全然オッケーっす」

穂積……俺に気を使わせまいとして……。

「つーわけで、家に帰って寝るなり誰かに会いに行くなり好きにしてください。お疲れっした」

「ほ、ほじゅみ~!」

「うわっ、ちょ、アンタ鼻水! って、制服に付いたでしょうが! 俺は男に抱き付かれる趣味は無いんすよ!」

「ほじゅみー!」

「つーか、さっさと行けー!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る