第35話 手のひら
日付が変わる頃に雨が降り出してきて、客足がぱったり途絶えた。
お客さんがいなければいないで、それなりにやることはあるのだが、昼過ぎから出勤している身としてはさすがに眠くなる。
「田中さん」
「ん?」
「眠そうっすね」
「あ、すまん、大丈夫だ」
俺は
「田中さん、この仕事が明けたら休みっすよね?」
「一応その予定だけど」
「夕方から合コンする予定なんすけど、頭数が足りないんで、田中さん参加しませんか?」
「……俺、彼女いるんだけど?」
詩音のことは穂積も知っている。
あまり快くは思っていないみたいで、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「仮っしょ? それに単なる数合わせなんで、顔出すだけでいいっすから」
少しムカっときたが、強く反論するほどのことでも無い。
浮気しまくりでセフレがいた穂積にとっては、仮の彼女なんて取るに足らないものなのだろう。
俺とは相容れない考え方や価値観ではあるけれど、それを押し付けても仕方がない。
「最近あまり休めてないから、家でゆっくり過ごすよ」
参加する気も無いし、休みたいという気持ちも本当だ。
「お相手は田中さんが行ってた大学の女子達っすよ」
「いや、別にどうでもいいけど」
「うちの大学、よく田中さんの大学と合コンしてるんすよ」
「へー」
本当にどうでもいい。
辞めてから随分と経つし、偶然の再会を期待するような相手もいない。
「元カノさんも同じ大学で、まだ在学中っすよね」
穂積は
イケメンなのに勿体無いなと思うが、どこか演技じみた表情にも見える。
「去年のクリスマス前、元カノさん合コンに参加してましたよ」
なんだ、そんなことか。
その表情と挑発的な口調の理由が、ひどくつまらないものだったので苦笑する。
「ああ、葉菜から聞いて知ってる」
穂積は
ちょうど自動ドアが開いたが、誤作動だったらしく誰も入って来ない。
こんな会話は早く終わらせたいし誰か来てくれればいいのに、雨音だけが店内に流れ込んでくる。
意外と強く降っているみたいで、人通りどころか行き交う車も少ない。
「森崎葉菜さん、でしたっけ?」
自動ドアが閉まるのを待っていたように、穂積が途切れた会話を再開させる。
その合コンに、たまたま穂積も参加していたのだろう。
勿論、その時は俺の元カノとは知らなかった
「キレーな人っすよね」
確かあの後、同じようなセリフを言われた気がする。
その時も、コイツは嫌な笑顔を浮かべていた。
俺は自分がイライラしていることに気付いた。
「もうそんな話はいいだろ」
「何で別れたんすか?」
このままだと、あまりいい方向に進まない気がする。
「あんなキレーな人、そうそういないっしょ? 深夜に元カレのバイト先に来るくらいっすから、向こうから振ったようにも思えませんし?」
話題を変える気は無いようだ。
「振った振られたなんて関係なく、別れてからも仲のいい元カップルなんて沢山いるだろ」
「いやいや、俺、元カノなんて忘却の彼方っすよ。だから知りたいんすよねぇ。そういう関係を続けてる人の心理っつーか、関係性? みたいなの」
「お前でも判るだろ? 好きでなくても付き合うことはあるだろうし、逆に嫌いでなくても別れることだってある。嫌いじゃないなら、別れてたって仲良くは出来るさ」
「じゃあ、やっぱ重いから別れたんすか?」
真夏の炎天下で、
「重い? お前が葉菜の何を知ってる」
じりじりと肌を焼く日差しに意識が
「いや、だって実際のところアレは重いっしょ? そんでもって、どうしたって同情が残るから関係をズルズルと続けてしまう、ってところじゃないっすか?」
──「アレ」? 響きは気に入らないが許容範囲だ。
──「同情」は仕方ない。
同情から理解が深まることもある。
別に間違ったことは言ってないのかも知れない。
それに、葉菜はもう別れた女性で、俺がとやかく言うことでもない。
「正直、ヤルとき
ヤル? 何を? 萎えるって何が?
「あんな指で──ぐっ!」
判断も、解釈も何もない。
俺は穂積の胸倉を
ああ、まただ。
俺はもう彼氏じゃない。
葉菜とは距離を取った。
それでも結局、俺は葉菜が
これじゃあ、何のために葉菜と離れたのか判らないじゃないか。
……そりゃそうか。
葉菜と付き合うよりも前から、俺は同じことを繰り返してきたんだ。
別れても大切な女性であることは、変わりようが無かったんだ。
葉菜の可愛らしい手は、左手は親指と薬指、小指がある。
薬指と小指はもともと癒合していたから、寄り添うようにあってあまり開かない。
薬指は太く、小指は関節ひとつぶん短い。
右手は親指と人差し指と小指がある。
親指はやや短く、人差し指は少し太い。
小指は普通の女の子の指で、葉菜はそこに指輪を
葉菜はその指を、自身の最も女の子らしいところと思っているようだけど、俺は左手の小指の方が可愛いと思うなぁ。
葉菜の指は、両手とも生まれつき三本だ。
三本「しか」という言葉は使いたくない。
欠指症という言葉も嫌いだ。
葉菜に足りないものなど何も無いし、葉菜に欠けているものなど何も無い。
普通の人より小さな手のひらと、個性豊かな葉菜の指が、俺は大好きだった。
※こういう設定を胸糞に思う人もいるかも知れませんが、実在する知り合いの女性をモデルに書いています。
例えばホクロの多寡と同じように、重く受け止めずに個性の一つと思ってもらえれば幸いです。
ただ、心無い人がいるのは確かです。
どう対応すればいいのか迷うのは当然のことで、私自身、答など判らないのですが、その女性はとても素敵な人でした。
自分も素敵な人であろうと思うばかりです。
もしかしたら、そう思うことが答なのかも知れません。
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