第21話 初めて

詩音がその犬を洗ってくれている間に、俺は葉菜に電話をかけた。

お湯で洗ったとしても、この寒さじゃ乾くまでに風邪をひいてしまう。

「昨日の犬?」

俺がドライヤーを持ってきてほしいと言うと、葉菜は直ぐに理解した。

「タオルは?」

「それは店の商品を買った」

「そう、じゃあドライヤーだけでいいのね?」

「ああ。あ、時間も時間だから気を付けて」

「……ありがと」

やり取りは一分もかからなかった。

余分な言葉を用いなくても、言いたいことは伝わる。

素っ気ないような濃密なような関係は、昔から変わらない。

「えっと、田中っち」

「ん?」

「今の電話……誰?」

「ああ、昔から馴染みのあるヤツで、腐れ縁というか何というか」

「……女の人?」

「そうだけど?」

詩音がきゅっと唇を結んでから、ちょっと引きったような笑みを浮かべた。

「な、なんかちょー親しいみたいな空気が感じられたっぽいような?」

「ま、まあ、幼馴染というか元カノというか……」

「元カノ!?」

随分と驚くな。

亜希もそうだったが、コイツも俺に彼女がいたとは信じられないのだろうか。

「元カノとはスパッと縁を切らないと、ズルズル引きずって情けない男になるってばっちゃが言ってた!」

なかなか痛いところを突いてくる。

二年半もズルズルと引きずっている俺は何なのか。

「なあ詩音」

「な、何?」

「別れたら、スッパリ断ち切らなきゃいけないものなのかなぁ」

詩音は少しだけ口惜くやしそうな顔をした。

「……例えばこの子が」

犬の頭を撫でて微笑みかける。

「飼い主に捨てられたとして、捨てた飼い主はクソだとしても、この子の中にある飼い主との素敵な思い出は色褪いろあせないんじゃん?」

「詩音……」

「だって、ばっちゃがあっしを忘れたとしても、すべてを無かったことになんかは出来ないっしょ!」

詩音は最初に自分が言ったことを、二つも例を挙げて否定した。

何かにあらがうような強い口調は、何故か普段よりも詩音を弱々しく見せた。

犬が、詩音のほほめた。

その素直な感情表現が羨ましい。

俺ももっと素直に──って、俺に出来ることなんてあるだろうか。

何事も中途半端で、何も背負っていない宙ぶらりんの状態の俺が、言ってやれる言葉なんてあるのだろうか。

「くよくよ考えるのは良くないって、ばっちゃが言ってた」

くそ、俺が言葉をかけてもらってるじゃないか。

いや、詩音が自分自身に言っているのか。

詩音は、ばっちゃの言葉をはげみに、ばっちゃの面倒を見ているんだ。


「田中っちが、初めてあっしに声かけてくれた時のこと憶えてる?」

犬を洗い終え、タオルで優しく体をいてやる。

詩音は、いつものちょっと甘えたような明るい声に戻った。

「初めてはお前の方からじゃなかったか?」

「初めては田中っち」

……何か誤解を招きそうな発言だ。

「あっしがこの店に四回目に来たとき」

四回目……だとすると、詩音がまだレンタル彼女的なバイトをしている頃だろうか。

「この店に、前のバイトのお客さんと一緒に来た最後のとき」

確かに、そのくらいを境にして詩音は一人でしか店に来なくなった。

「田中っちが心配してくれたように、良くないお客さんも確かにいたわけで、あのときのお客さんがそうだったんだ」

そう聞いて思い出した。

客の風貌ふうぼうまでは思い出せないが、良くない客であることは俺から見ても判った。

「規則では夜の十時まで。このコンビニでジュースおごってもらったりして解散ってパターン。いつもちょっと時間オーバーしてたけどね」

「あのときは十二時近かったんじゃないか?」

「うん。なかなか解放してくれなくて、このお客さんちょっとヤバいかも、って不安でオシッコちびりそうだったし」

そうだ、客の風貌とかよりも、俺は詩音の様子を見てなんかヤバそうだって思ったんだ。

「お前、こんな時間まで何やってんだよ。早く帰らないと面倒だぞって田中っちが」

そう言えばそんなこと言ったなぁ。

「あっし、この人はいったい何を言ってるんだろうってマジびっくりして、最初は意味わかんなかったんだけど、お客さんが急に居心地悪そうにし出したのを見て、あ、知り合いが注意している風を装ってるんだって気付いたんだ」

「さっきお前のお母さんが探しに来てたぞ、ってのも言ったな」

「そうそう、それであの人めっちゃキョドり出して、小物臭ハンパなかったっしょ?」

確かに、そいつはすでに帰りたそうにしていた。

店を出た後の二人を確認したわけではないが、詩音のこの様子だと、その客からは直ぐに解放されたのだろう。

たまには俺も人の役に立って──

「というわけで、田中っち」

「ん?」

「おかげであっしの貞操は守られたわけでぇ」

……いや、それでお前の貞操が守られたかどうかは判らないわけで。

「詩音の初めてはぁ、田中っちにあげなさいってばっちゃが──」

「言うか!」

「むー、でも死んだじっちゃが遺言で──」

「言うかっ!」

「田中っちはそんなに……あ」

「どうした?」

「あっし、ラスボス見ちゃったかも……」

「ラスボス?」

詩音の視線を追うと、その先には紙袋を持った葉菜がいた。

ラスボスと言うには可愛らしい躊躇ためらいがちな足取りと、やや気難しげな顔。

葉菜は人見知りが激しいし、初対面の人とは敵対する傾向にある。

でも、別れてからの二年半で少しは成長したはずだ。

だからほら、ちょっとぎこちないけれど、二人の前に立った葉菜は笑顔を浮かべる。

「遅くなってごめんなさい。それとも、早く来すぎてごめんなさい?」

半分は嫌味だけど、割と柔らかい声だ。

そんな葉菜を、犬は尻尾を振って迎えた。

詩音も、笑顔を返した。

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