第20話 迷い犬

クリスマスを間近に控えた寒い夜に、一匹の野良犬が店にやってきた。

昨今、都会で野良犬を見かけることなんて皆無かいむに近いと思うけれど、その犬の伸び放題の毛は所々が皮膚病で禿げ、使い古したモップみたいな姿をしていた。

恐らくは、なんとかテリアとか言われる種類の犬で、首輪は無かったがかつては飼い犬だったのであろうことがうかがえた。

うちの店は自動ドアだが、その犬は店の中には入らず入り口にちょこんと座った。

随分きちんとしつけされていたらしい。

とはいえ、自動ドアが度々反応して寒風が店の中に吹き込んでくるのは困る。

穂積が舌打ちした。

でも扉が開く度に、犬は尻尾しっぽを振った。

俺は廃棄の弁当を持って犬に近づいた。

「ちょ、田中さん」

居着くと困るとでも思ったのか、穂積は慌てたように俺を呼んだ。

俺は構わず、その犬の前に弁当を置いた。

思いっ切り尻尾を振りながら、そいつは俺の顔を見るばかりで食べようとしない。

……?

あ、そうか。

「お食べ」

俺がそう言うと、犬は弁当を食べ始めた。

頭を撫でると、そいつは食べるのを止め、不思議そうな顔をして俺を見た。

普通、犬は食べるのを邪魔されると嫌がるはずだが、そいつは「いいの?」とでも言うように俺を見た。

葉菜なら、きっとコイツを抱き締めただろう。

「いいよ」

俺がそう言うと、そいつは俺の膝元に擦り寄ってきて嬉しそうに鼻を鳴らした。

コイツは、空腹よりも人肌が恋しかったのだろうか。


その犬は弁当を食べ終えると、どこかへ行ってしまった。

俺は何だか人恋しくなって、休憩時間に葉菜に電話した。

「こんなに夜中にどうしたの?」

葉菜は寝起きの声で、でも嬉しそうな声で電話に出た。

俺は、さっきまでいた犬のことを話した。

「春平」

普通、人は寝ているところを起こされると不機嫌になる筈だが、葉菜は優しい声で俺を呼んだ。

「その子、私と似ているわね」

葉菜はどこか嬉しそうにそう言った。

葉菜はお嬢様育ちだけど、確かにその犬と似ているところがあった。

人と同じように、犬には犬の生き方や生い立ちがあって、アイツは飼い主に捨てられたのかはぐれてしまったのか判らないけれど、それでも、生きることは大変で嬉しいことなのだと思う。


次の日の夜も、そいつは店に来た。

どういうわけか入口ではなく、店の光が当たらない暗がりにちょこんと座っていた。

最初は気付かなかったのだが、空になった番重ばんじゅう(弁当やパンなどを運搬する際の薄型の容器)を店の裏の倉庫に運ぶ時に、嬉しそうに尻尾を振っているそいつに気付いた。

「なに遠慮してんだよ」

俺はしゃがんでそいつの頭を撫でると、また「いいの?」とでも言いたげな顔をした。

「後でメシを持ってくるから、ここで待ってろ」

どこまで言葉を理解しているのか判らないが、その犬は姿勢を正して座った。


休憩時間に外に出ると、犬は同じ場所に同じ姿勢で座っていた。

こんな暗い場所じゃなくて店の光が当たる場所にと思い、俺は犬を連れて灰皿の近くへ移動した。

昨日と同じように、「お預け」なんて言わなくても、「お食べ」と言うまで食べない。

まずは食べて抵抗力を付けろ。

朝になったらお湯で身体を洗い、獣医にのところへ連れて行ってやる。

そして──

……そこまでのことをして、後は放り出すのか?

最後まで面倒を看られないなら、中途半端な優しさなど与えてはいけないのでは?

「田中っちー、とわんちゃん!?」

自転車のブレーキ音と、いつもの明るく甘えたような声。

「詩音、帰れ」

「えー、この寒い中、二十分も自転車を漕いできた女の子にヒドくない?」

詩音はそんなことを言いながらも、全く気にした様子はなく犬の隣に座った。

「お手」

いきなりだな。

みすぼらしい犬は戸惑ったように身動みじろぎして、やっぱり「いいの?」という顔で躊躇ためらいがちにお手をした。

「おかわり」

犬は反対の手を差し出した。

「かわいー!」

詩音は犬を抱き締めた。

俺は少なからず驚いた。

本来は白であっただろう毛は、灰色と茶色が混ざったような色になり、皮膚が露出した部分は赤くただれている。

普通なら、触れたいとは思わない筈だ。

「お前、臭いよ? 洗ってあげなくちゃね」

詩音は顔をしかめながらも、笑って言う。

「仕事が終わったら、洗ってやるつもりだ」

「さっすが田中っちー。でも、あっしに任せて」

詩音は犬っぽいところがある。

感情を素直に表して、尻尾が付いてるんじゃないかと思うくらいに判りやすい。

そして詩音の表情に嫌悪感は無い。

無理をして犬を可愛がってるわけでも無さそうだ。

もしかしたら、葉菜と仲良くなれるんじゃないかと思ってしまう。

「田中っち?」

「あ、バケツにお湯を入れてくる」

「お願いー」

俺は店内に戻り、「赤ちゃんにも使える」と書かれたボディソープとタオルを買う。

穂積が「物好きっすね」みたいな顔をするので、

「さっさと彼女に振られろ」

と言っておく。

お湯を入れたバケツを持って詩音のところに戻ると、犬が泣いているように見えた。

いや、涙を流しているわけじゃないけど、そいつは詩音の膝の上で、確かに泣いていたんだ。

「あーもう! この子、嬉ションしたぁ!」

嬉ションって、一般的な言葉なのか!?

そして詩音は、なぜ笑っているのだ?

「詩音」

「はいな!」

「お前、その犬を汚いとか思ったりしないのか?」

素直な疑問だ。

「いや、この子は汚いっしょ?」

素直な答だ。

「だったらどうして、平気でれられるんだ?」

「んー、ばっちゃの世話で慣れてるから」

え?

それって、どういうことだ?

ばっちゃと言うからには、普段から詩音が口にしているばっちゃのことで、そのばっちゃの世話?

詩音に沢山のことを教えたばっちゃは、もしかしたら認知症か何かで、詩音はそのお世話をしているのだろうか。

ばっちゃは今、詩音に人の悲しみやむなしさ、生きることの意味を教えているのだろうか。

だから詩音は、こんなにも強いのだろうか。

「田中っち?」

葉菜が言うように、俺は涙もろいんだ。

「田中っち!?」

嬉ションされても笑っていた詩音があせる。

それが可愛らしくて、俺は笑顔になった。

「田中っちが……嬉ションしてる!」

俺は、笑いながら泣いていた。

嬉しくて、悲しくて、でもやっぱり嬉しかったんだ。

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