第22話 牽制
葉菜は犬の前にしゃがむと、抱き締めるようにしてその子の頭を撫でた。
葉菜が初対面の人間の前で、そんな姿を見せるのは珍しい。
普段なら、もっと警戒心を
「あ……」
犬を撫でる葉菜を見た詩音が、ちょっと目を見開いてから、なんとも言えない不思議な笑顔を浮かべた。
まるで満たされたような、でも少し寂しげなような。
「あ、あの、あっし──私、田中っちと
「懇ろじゃねーよ!」
ったく、懇ろなんて言葉、女子高生が使うか?
これだからお
「か、彼女さんのお名前は?」
彼女さん?
「森崎葉菜。でも、元カノよ? ボロ
「人聞きの悪いことを言うな!」
「でもっすね、こんな時間に普通に電話で話して、お願いされたら出てくるなんて彼女じゃなきゃ何だ、みたいな?」
二人とも俺にツッコませておいて俺を無視する……。
「まあ、振った
「ねーよ!」
「あっし、こう見えてけっこう本とか読む人なんですよー」
「聞けよ!」
「春平はこう見えて、本を読みながらしょっちゅう涙ぐむのよ?」
あ、やっと俺、話題に入れる?
「へー、田中っちが」
さっき泣き顔を見られたばかりだが。
そのせいか詩音は、ちょっと微笑ましげに俺を見る。
「ちなみに私は、毎晩のように春平を思って
ちょ、葉菜?
「
「跨ってかよ! 涙じゃねーのかよ!」
「あ、判りみが深い!」
判り合っちゃったよ!
くそ、俺は相手にされなくて寂しいけど、こんな風に葉菜が初対面の人と話せるなんて嬉しくて
「春平」
俺のことはいいから、二人で親交を深めてくれ。
「春平、コンセントは?」
「え? あ……」
葉菜は俺を
俺は、嬉しくて堪らなかった。
店外に一カ所だけあるコンセントの前で、犬にドライヤーを当てる。
犬は本来の白さを取り戻し、気持ち良さそうに風を浴びていた。
葉菜と詩音に挟まれて、とても幸せそうにも見える。
見ている俺も幸せになれる、微笑ましい光景だ。
「この子、オスね」
「オスなんですか?」
「ええ。春平より遥かに小さいモノが」
微笑ましい……筈だよな?
「た、田中っちはそんな凶悪なモノを!?」
「ええ。おとなしそうな顔して
「ひぇー」
「でも安心して」
何を?
「痛い! って思ったときにはもう果ててるから」
「
「あら、初めてのときなんて触れずに出てくる魔法の蛇口──」
「やかましいわっ!」
「でも、その後は優しかったわ」
「優しくもねーよ」
「とても私を気遣ったじゃない」
そりゃ、随分と痛がったし、何より愛おしかったし……。
「あ、あの」
詩音が
「あっし、何か飲み物買ってきますね!」
そう言って、どことなく逃げるようにも見える素振りで店内へ入っていく。
「春平」
「ん?」
「私、嫌な女ね」
「どうして?」
「私と春平が、どれだけ深い関係だったかを話すことで
「……お前は事実を話しただけだよ。それに牽制も何も、アイツは懐いているだけで」
「可愛がってくれるご主人様が、過去にもっと可愛がってた存在がいると知ったとき、時系列的には自分が寝取った側なのに、何故か迫り来る寝取られ感」
「何を言っているんだオマエは」
「過去の栄光を自慢したようなものよ」
「そんないいものじゃ無いだろ」
「これでも頑張ったのよ?」
「何を?」
「あの子がいるのに春平が私を呼んだということは、あの子と仲良く出来ると思ったからでしょう?」
「……無理をさせたか?」
「無理はしてないけど、嫉妬はしたわ」
「嫉妬?」
「だって、あの子がいい子だって、直ぐに判ったもの」
葉菜は、人の視線に敏感だ。
それがどういった
「あの子の視線と笑顔、見てたでしょう?」
「……ああ」
「それに気付いているなら、もう邪魔はしないわ」
葉菜は立ち上がった。
「あ、そうだ。春平にマフラーを編んできたのだけど、渡すのは今度にするわね」
ドライヤーを持ってくるだけにしては、何で紙袋なんだろうと思っていた。
どうやらそこにはマフラーが入っているらしい。
コイツはまた新たに、手編みというスキルを獲得したのだろう。
「クリスマスプレゼントじゃないのか?」
元カノが、クリスマスプレゼントに手編みのマフラーというのはどうかと思うが、昔からコイツは、何かスキルを身に付けると俺に見せてくる。
「そうだけど、出来上がったら一日でも早く渡したくなったのよ」
「牽制してたのに遠慮するのか?」
「言ったでしょう? あの笑顔に気付いているなら邪魔をしないって」
詩音の笑顔の意味を、言葉で表すのは難しい。
ただ言えるのは、詩音は葉菜を認め、葉菜は詩音を認めたということだ。
「私は悪者になりたくないの。それに過去の話と現在進行形じゃ違うでしょ」
そういうものなのだろうか。
葉菜の考えていることは誰より判るつもりだけれど、コイツはよくはぐらかすからなぁ。
「第一声でクソビッチって言えなかったのが悔やまれるわ」
ほら、直ぐこんな風に。
いや、あるいはこれが、明快な本心か。
「じゃあ、またね」
葉菜は犬に向かって言うみたいにその頭を撫で、最後はいつものように大きく手を振った。
「お待たせしま──あれ? 彼女さんは?」
「帰ったよ。つーか元カノだ」
「田中っちはブラックコーヒー、彼女さんは紅茶が似合いそうだけど実は緑茶、あっしはミルクティー。合ってる?」
「詩音のぶんはともかく、合ってるよ」
随分と時間がかかったようだが、単純に迷っていたのか、それとも変に気を使ったのか。
って、時間!
俺はスマホで時刻を確認する。
……休憩時間を二十分もオーバーしていた。
「おい詩音、お前はそろそろ帰れ」
「えー」
「おい犬、お前は朝までその辺で待ってろ」
「
うるさい詩音を
「穂積、ごめん!」
俺は頭を下げた。
「あ、別にいいっすよ。詩音ちゃんがコーラご馳走してくれたんで」
アイツ……また気を利かせやがって。
どれだけばっちゃの教育が行き届いてるんだ。
「まあそれもありますけど、普段から田中さんの方が働いてるっしょ」
「いや、それは先輩だし……」
「世の中、先輩だからって楽するヤツの方が多いんすよ」
「でも、時給は俺の方が高いんだから、そのぶん働くのは当たり前だろ?」
穂積が溜め息を
「そこまで言うなら、ひとこと言っておきますよ」
「ああ、何でも言ってくれ」
穂積が深呼吸した。
「休憩時間にイチャラブとか、羨まし過ぎなんすよ!」
穂積は泣き笑いみたいな顔で言ったけど、これは嬉ションじゃないなぁ……。
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