第五章 月光玄室《げっこうげんしつ》
1
その窪みは、底に近づくにつれて傾斜が緩くなり、中央部でまた急激に地中に落ちこんでいるようだ。
上から覗くかぎりは、そう見える。
慎一は桃の実を
残った縄の一端を穴の縁に近い桃の幹に結び、それを頼りに、直下の急斜面を下り始める。ほんの数メートルのこと、観光登山路の
「慎一、おぬしもずいぶん
慎一の頭で
「俺は正直、先を続けるのが恐い。この穴は、どうも
「また伸びて、先の様子でも確かめたらどうだ?」
「やめておこう。地獄の
「すぐに縮んで、こっちに戻ればいい」
「おぬしは伸びたことがないから気楽に言うが、もし閻魔に首をつかまれたらどうする。そのとき俺の後足は、何里も離れたこっちにあるのだぞ。戻るに戻れず、閻魔方向に縮むしかなくなるではないか」
「……なるほど」
「泣き虫小僧にしがみついているほうがまだましだ」
怖がっているのか軽口を言っているのか判然としない
「帰るときには伸びてもらうぞ」
「おうよ。逆方向ならいくらでも」
「しかし、
慎一は、また苦笑した。
やがて、緩くなった斜面に足を下ろす。
その先の坂は、当分、緩くなる一方のはずである。ただし長い。
無限とも思える桃林の坂を、慎一は黙々と下った。
歩いても歩いても先の底は見えない。暗い細道が、一直線に続くばかりである。もし実際に
しかし、見上げれば春の朧月夜、息を吸えば桃花の香り――。
慎一にとっては、曲がりくねっていないだけで、むしろ懐かしい風情の道筋だった。
幼い
なにがなし、慎一は肩の
「……
「それはあるさ」
「腹を空かしたまま寝ると、田村麻呂の軍勢を片端から貪り食った昔の夢など、よく見るぞ」
「夢の中で夢を見ることは?」
「……言われてみれば、あるな」
「じゃあ、起きている間に、昔のことを思い出した自分を、また後で思い出す――そんなことは?」
「それは……ないかと思ったら、やっぱりあるな」
「思えば記憶とは不思議なものぞ。眠って見る夢とて、起きて思い出せばそれも記憶。起きているうちに見た
慎一は、背中の
「――先月、俺と
「おう。沖縄であろう。
「夜、ホテルのダブルベッドで、
「ほう……続けろ」
「明け方、ちょっと目を覚ましたら、隣の枕に、
「……おぬしに
「不思議に思って見ていたら、いつのまにか
「まあ、おぬしの嫁は、名前からして実を結んでおるからなあ」
そんな、微妙に噛み合わない会話を続けるうち、
「おい、慎一」
「ああ」
慎一も真顔になった。
いつの間にか坂道ではなく、ほぼ平坦な道を歩いている。
行く手に目を凝らすと、桃林の彼方に、ゆらゆらと揺れる炎が見えた。
陰火ではない。荒々しい猛火でもない。
「焚き火?」
懐かしい暖色の炎である。
慎一は、子供の頃、あちこちの道端で見かけた冬の風物詩を思い出した。
しかし
「いや――あれは
そう言って身構えた。
鉄製の
進むにつれて、その
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