第五章 月光玄室《げっこうげんしつ》

 その窪みは、底に近づくにつれて傾斜が緩くなり、中央部でまた急激に地中に落ちこんでいるようだ。

 上から覗くかぎりは、そう見える。

 ふちから数メートルは、傾斜がきつすぎて足掛かりになりそうな桃の木も根付いておらず、小さいままの管生くだしょうはともかく、慎一は、そのままではずり落ちるしかない。


 慎一は桃の実を御初着おくるみに包み、番小屋の廃墟から持ち出した縄を工夫して背負えるようにした。あの状況で現れたからには、実結みゆいと無縁の物とは思えない。実結みゆいを見つけるまで、持っていたかった。

 残った縄の一端を穴の縁に近い桃の幹に結び、それを頼りに、直下の急斜面を下り始める。ほんの数メートルのこと、観光登山路の鎖場くさりばを思えば大したことはない。


「慎一、おぬしもずいぶんきもが太くなったなあ」

 慎一の頭で管生くだしょうが言った。

「俺は正直、先を続けるのが恐い。この穴は、どうもいやな胸騒ぎがする」

「また伸びて、先の様子でも確かめたらどうだ?」

「やめておこう。地獄の閻魔えんまが待ちかまえていたら困る」

「すぐに縮んで、こっちに戻ればいい」

「おぬしは伸びたことがないから気楽に言うが、もし閻魔に首をつかまれたらどうする。そのとき俺の後足は、何里も離れたこっちにあるのだぞ。戻るに戻れず、閻魔方向に縮むしかなくなるではないか」

「……なるほど」

「泣き虫小僧にしがみついているほうがまだましだ」


 怖がっているのか軽口を言っているのか判然としない管生くだしょうの口調に、慎一は苦笑した。

「帰るときには伸びてもらうぞ」

「おうよ。逆方向ならいくらでも」

 管生くだしょうは請け合った。

「しかし、御初着おくるみ藁縄わらなわでおんぶして崖を下る公民館職員は、おぬしが世界で初めてであろうな。千年生きた俺も、初めて見る雄姿ぞ」

 慎一は、また苦笑した。


 やがて、緩くなった斜面に足を下ろす。

 その先の坂は、当分、緩くなる一方のはずである。ただし長い。

 無限とも思える桃林の坂を、慎一は黙々と下った。


 歩いても歩いても先の底は見えない。暗い細道が、一直線に続くばかりである。もし実際に漏斗ろうと状の構造だとしたら、文字どおり底がないのかもしれない。

 しかし、見上げれば春の朧月夜、息を吸えば桃花の香り――。

 慎一にとっては、曲がりくねっていないだけで、むしろ懐かしい風情の道筋だった。

 幼い実結みゆいを、斎女ときめといっしょに手を繋いで家まで送った、夕暮れの坂道を思い出す。


 なにがなし、慎一は肩の管生くだしょうに訊ねた。

「……管生くだしょう、お前も夢を見ることがあるか?」

「それはあるさ」

 管生くだしょうは、道中の四方山話よもやまばなしくらいの調子で、

「腹を空かしたまま寝ると、田村麻呂の軍勢を片端から貪り食った昔の夢など、よく見るぞ」

「夢の中で夢を見ることは?」

「……言われてみれば、あるな」

「じゃあ、起きている間に、昔のことを思い出した自分を、また後で思い出す――そんなことは?」

「それは……ないかと思ったら、やっぱりあるな」


 管生くだしょうは、何か思い当たったように、

「思えば記憶とは不思議なものぞ。眠って見る夢とて、起きて思い出せばそれも記憶。起きているうちに見た現世うつしよの記憶も、夢で見直せばただの夢――ならば世界の真実やら、まことの自分とやらも、しょせん己の心ひとつなのであろうよ」


 慎一は、背中の御初着おくるみに包んだ白桃を思いながら、

「――先月、俺と実結みゆいが新婚旅行に行ったのは知ってるな」

「おう。沖縄であろう。土産みやげちんすこうヽヽヽヽヽは美味かったぞ」

「夜、ホテルのダブルベッドで、実結みゆいといっしょに寝た。結婚前も色々あったけど、俺は実家にいたし、実結みゆいは施設の寮にいたし、朝まで同じ蒲団の中にいたことは一度もなかったんだ」

「ほう……続けろ」

「明け方、ちょっと目を覚ましたら、隣の枕に、実結みゆいの顔じゃなくて桃の実があった」

「……おぬしに艶話つやばなしを期待した俺が馬鹿だった。まあいい。続けろ」

「不思議に思って見ていたら、いつのまにか実結みゆいの顔に戻って、ああ、これは夢だ、そう思ってまた寝たんだけど、そのあと、何度あの朝のことを思い出しても、あれは夢じゃなくて現実だったとしか思えない」

「まあ、おぬしの嫁は、名前からして実を結んでおるからなあ」


 そんな、微妙に噛み合わない会話を続けるうち、

「おい、慎一」

 管生くだしょうが、慎一の耳を引いた。

「ああ」

 慎一も真顔になった。

 いつの間にか坂道ではなく、ほぼ平坦な道を歩いている。


 行く手に目を凝らすと、桃林の彼方に、ゆらゆらと揺れる炎が見えた。

 陰火ではない。荒々しい猛火でもない。

「焚き火?」

 懐かしい暖色の炎である。

 慎一は、子供の頃、あちこちの道端で見かけた冬の風物詩を思い出した。

 しかし管生くだしょうは、

「いや――あれは篝火かがりびぞ」

 そう言って身構えた。

 鉄製のかごを細い三本のあしで支え、その籠でまきを焚く、中世以来の夜間照明である。


 進むにつれて、その篝火かがりびは点々と増えていった。

 管生くだしょうの記憶だと、いにしえの戦場の陣中で焚かれていた篝火かがりび、あるいは薪能たきぎのう篝火かがりび――いずれにせよ、そこには常ならぬ気配の人々が集っている。

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