そして、しばらくののち――。


「そろそろ涙は涸れたか、慎一」

「……いや、まだだ」

 すでに泣きやんだ慎一は、濡れた顔を袖でぬぐいながら、

「残りは、これからの実結みゆいのために残しておく」

 そう言って管生くだしょうに向けた目は、涙で充血しているが、すでに迷いは晴れていた。


「それがいい。そうしろ」

 管生くだしょうは安堵して、

「ここでのことは、しょせん夢幻ゆめまぼろしと同じことぞ。現世うつしよに帰れば、ちゃんと大人の実結みゆいがおる。しかし現世うつしよなればこそ、五十年先には皺々しわしわの婆さんぞ。すっかり呆けて、寝たきりの赤子同然になっておるかもしれぬ。そしておぬしは末長く、泣きながら毎日おむつを替えてやるのさ。だから涙は、いくらあっても足りぬ」


 これでも慰めているつもりなのだろうな――慎一は苦笑した。

 御初着おくるみ実結みゆいに、改めて目をやる。

 顔色は白いが、眠っているのと同じ安らかさを感じる。


 慎一は立ち上がり、間近な桃の木から花の枝を一本、手折って戻った。

 実結みゆいの頭の横に、供えるように立てる。

 管生くだしょうは、ほうほうと感心しながら、

「なるほど、人とは風流なものだ。俺では思いつかぬ。生き返ったときに目の前に花が咲いておれば、実結みゆいも楽しかろう。――のう慎一、おぬしもそう思って、そこに立てたのだろう」

「……ああ」

「つまり実結みゆいは『つてこはずれ』であった――そういうことだな?」

 そうとしか思えない――慎一は黙ってうなずいた。


『つてこ』とは、いわゆる『間引まびき』の別称である。

 植物栽培における作業としての『間引き』ではなく、昔、飢餓と貧困の時代、養いきれない子供が生まれてしまった際に、生まれなかった者として秘かに葬った、その行為を表す『間引き』――確かにむごい行為ではあるが、現代のような避妊手段や中絶技術がなかった時代、いたずらに責めるべき行為とは言いきれない。

 その『間引き』を、東北の一部では『つてこ』と言い習わしていた。単に『捨て子』から変化したと解釈する民俗学者もいれば、此岸で育てられない赤子を彼岸で生かすため、神仏の伝手つてを頼った『伝手子つてこ』――そんな哀れな説もある。

 しかし、そこから派生した、陰のさらに陰の言葉である『つてこはずれ』とは――。

 土に埋めても川に流しても死なずに戻ってきてしまう、一種超自然的な赤子――それが『つてこはずれ』である。神聖な子供として育てられるか、不吉な子供として嫌われるかは、育てる親の心、あるいは地域の慣習で決まる。


「『つてこはずれ』は鬼になる――そんな噂も故郷くににはあったよ。貧しい時代が長かったからな。俺としては、本当にそんな鬼がいるならむしろ仲間内、ぜひ会いたいものだと思っていた。だから俺は、おぬしや斎女ときめとは違う意味で、実結みゆい贔屓ひいきにしたいのさ」

 管生くだしょうは、今は息のない実結みゆいに、優しげな目を向けて言った。


現世うつしよ実結みゆいは、二十年前、確かにそこの涸れ井戸に埋められたのであろう。しかし朝までに息を吹き返し、自力で土中から這い上がった。それから外に出て、山狩りの大人たちに救われた。埋めた二人はさぞ驚いたろうが、母親や父親、それから例の実の父親などは、確かに喜んだ――喜んだはず、と俺は思いたい。まあ十年後には、あんな修羅場になってしまったわけだがな」


 管生くだしょうは、実結みゆいの頬に顔を近づけて、

「――そんなこんなで、鬼の実結みゆいも、俺にはけっこう可愛いのだよ。しかし今ここにいる実結みゆいは、少々悩ましいな。この場ごと呑んでしまえば、病院で寝ている実結みゆいの心が、まるっきりの赤子に戻ってしまいそうな気がする。それではおぬしも後が大変であろう。まあ、ここで実結みゆいの息が戻るのを待ち、捜索隊に救われるのを見届けてから、おぬしと病院に戻る――それだけでいいのかも知れぬ。慎一、おぬしはどう思う」


 慎一は、管生くだしょうの問いに答えず、

「ここは、確かに夢幻ゆめまぼろしのようでも、あくまで実結みゆいの記憶の中の世界だ」

「それがどうした?」

「だったら、おかしいと思わないか、管生くだしょう

「あん?」

「生まれて間もなく死んだ自分の遺体の姿を、実結みゆいが記憶していることになる」


「いや、それは……」

 管生くだしょうは少々うろたえ、

「しかし世の中には、自分の通夜を見てから三途の川の手前まで行って、また戻ってきて、棺の中で息を吹き返す奴もおると聞くぞ。自分が生まれたときの部屋の様子をちゃんと覚えている、そんな奴の話も聞いた。まして実結みゆいは『つてこはずれ』、並の赤子ではない。それくらいのことは覚えていても……」

「なら、死んでから生き返るまでの実結みゆいは、記憶のどこにいるんだろう」

「…………」

「屋敷の門で、車の後ろに陰火が見えたとき、俺は確かに実結みゆいの声が聞こえたような気がした。でも、こちらに降りてからは、何も聞こえない」

「それは俺も同じぞ。声までは聞こえなかったが、あれは確かに実結みゆいの陰火であった」

 管生くだしょうは、自問するように、

「そうすると……もし、あのトランクの中で、実結みゆいが逝ったとしたら……実は、ずっと、いっしょにいたのではないか? 今もこのあたりにおるのではないか? 実結みゆいの、つまりこの赤子の実結みゆいの、その、いわゆる死霊とか、生き霊という奴が……」


 慎一が、ふと背筋を強張らせた。

 管生くだしょうの言に怯えたわけではない。

 慎一は何かを探すように、あたりを見回している。


 管生くだしょうが、おずおずと訊ねた。

「……実結みゆいの声か?」

「いや……でも、気配というか……」


 そのとき実結みゆい御初着おくるみが、ふわりと動いた。

「息が戻った!」

 管生くだしょう御初着おくるみに駆け上がったが、

「これは……」

 御初着おくるみは、小さな管生くだしょうのわずかな重みで、ぱさりと窪むように膨らみを失った。


実結みゆいが消えたぞ!」

 管生くだしょうが叫んで慎一を見ると、

「…………」

 慎一は、管生くだしょうの頭上に手を差し伸べ、てのひらで何かを持ち支えていた。

 掌で受け止めた何かを、食い入るように見つめているらしい。

 管生くだしょうも横に身を移し、その何かを見定めた。

「……桃の実?」


 慎一が、先ほど実結みゆいに供えた桃花の枝に、ひとつの瑞々みずみずしい実がっていたのである。


実結みゆい……」

 慎一がつぶやいた直後――。


 ずん、と足元の大地が消えた。

「わ!」

 わけがわからず宙に浮く慎一と管生くだしょうを、次の瞬間、同じ大地が下から突き上げた。

「おう!?」


 直下型地震の縦揺れに似た激震が、慎一と管生くだしょうを、まりのように土の上でもてあそぶ。


 慎一は桃の実を胸にかばって、揺られるままに転がるしかなかった。


 管生くだしょうは小ささが幸いし、実をもがれた桃花の枝にすがって、さほど転がらずに済んだ。


 気が遠くなるほど長い揺れの後――実際は数分、あるいは数十秒だったのかもしれないが――微かな震動を残して、大地の揺れは治まった。


 管生くだしょうは枝から体を離し、あたりを見渡した。


 周囲の景色は、揺れる前と何ひとつ変わっていない。番小屋の廃墟も、朽ちかけたなりにそのままの姿で残っている。その向こうには、相変わらず長閑のどかな桃林が広がっている。花弁さえ散っていない。


「……俺を馬鹿にしているのか?」

 誰にともなくつぶやく管生くだしょうに、慎一の声がかかった。

「こっちだ、管生くだしょう

 見れば慎一は、両手で桃の実を胸に守りながら、廃墟とは逆方向、あの涸れ井戸のあたりに半身を起こしていた。


「ほう、井戸が崩れたか」

 管生くだしょうは、石組みの井筒が見えないのに気づき、ちょろちょろと慎一に近づいた。

「あれだけ揺れて、それだけのことかよ。あほらし――」

 言いかけて、管生くだしょうは絶句した。


 先の大地が、地の底に引きこまれている。


 果てが見えないほどの、巨大な漏斗ろうと状の窪み――管生くだしょうはそう見たが、慎一は、いつかテレビの海外ドキュメンタリーで見た、アリゾナのバリンジャー・クレーターを連想していた。しかし、その底はクレーターより何倍も深く、斜面に岩肌は露出していない。直径何キロもあろう漏斗ろうとの内側は、すべて桃林である。

 そして、今、慎一と管生くだしょうが呆然と佇んでいる場所の直前から――あの涸れ井戸があったあたりから、ひと筋の坂道が、遙か眼下の地の底まで一直線に続いている。


「……行こう、管生くだしょう

 慎一は言った。

「この道の先に、きっと生き返るまでの――死んでいる間の、実結みゆいの記憶がある」

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