桃林に囲まれた広からぬ空き地に、管生くだしょうは巧みに前足をついた。

 際限なく宙に伸びていた胴が、瞬く間にするするとこちらに戻る。


 慎一は管生くだしょうの背から、よろけることもなく土の上に立った。

「これは飛んだのと同じだぞ、管生くだしょう

 感心してねぎらう慎一に、

「宙に浮かねば飛べるとは言えぬ」

 管生くだしょうは、真っ当な理屈で応じた。ふだんから尊大な物言いをするわりに、大言壮語は嫌いなたちらしい。

「それより――来たぞ、慎一」


 古い豆電球らしい橙色だいだいいろの光が、朽ちた番小屋の残骸に向かって、ゆらゆらと近づいてくる。車を細道の手前に残し、そこから先は歩いてきたのだろう。

 実結みゆいの祖父が懐中電灯で行く手を照らし、祖母は布の包みを胸に抱いている。

「あれが実結みゆいか?」

「……たぶん」

 さきほど車の後尾に漂っていた陰火は、今は見えない。しかし、抱いているのが御初着おくるみに包まれた赤ん坊なのは確かだった。


 ふと、懐中電灯の光が横に逸れた。

 実結みゆいの祖父母は、廃屋の裏手に回ったらしい。

「……まさか!」

 慎一が、思い当たって叫んだ。

 いきなり脱兎のごとく駆けだす。

 管生くだしょうも後を追い、

「まさかとはなんだ?」

「すぐ裏に古井戸が!」

「何!?」


 すでに涸れ井戸なのは、慎一も知っていた。番小屋が放棄されてまもなく、遊びで忍びこむ子供たちが転落しないよう、ほとんど土砂で埋められたと聞いている。

 だからこそ――もし実結みゆいの祖父母が、実結みゆいの誕生をうとんでいるとしたら――赤ん坊の実結みゆいは、翌朝、土まみれで見つかるヽヽヽヽヽヽヽヽヽのだ。


 即座に追ったはずなのに、慎一たちが裏に回ると、実結みゆいの祖父母は、もう次の行動に出ていた。

 崩れかけた石組みの井戸の中に、祖母が御初着おくるみごと赤ん坊を投げ入れる。祖父は重そうな手押し車を傾け、井戸の中に土砂を注ぎこもうとしている。すみやかに事を運ぶため、以前から準備を整えていたのは明らかだった。


 慎一は、実結みゆいの祖父に渾身の力で飛びかかった。

 しかし、そのまま相手の体をすり抜け、もんどり打って後ろの藪に転がった。

 さきほどの館では、扉を破ることも実結みゆいに触れることもできたのに、今は記憶の世界に関われない体に戻っている。

 慎一は呆然と井戸を振り返った。

実結みゆい……」


「任せろ慎一!」

 管生くだしょうが叫びながら白獅子の丈に膨らみ、実結みゆいの祖父に躍りかかった。

「この外道!」

 管生くだしょうの声も、相手の耳には響かない。しかし相手を倒し、喰らうことはできる。


 横に倒れる手押し車と、頭からばりばりと食われてゆく夫を、その妻はただ硬直して見つめていた。おそらく、頭から消えてゆく夫の姿が見えるだけで、管生くだしょうの姿は見えていないはずである。それでも動転するには充分な光景だったらしく、実結みゆいの祖母は、転げるようにその場から逃げ去った。


 慎一は井戸の奥に身を乗り出した。


 元から埋められていた井戸なのが幸いして、御初着おくるみは手を伸ばせば届く深さにあり、まだ上半分が土砂から覗いている。実結みゆいの顔も、御初着おくるみから覗いている。赤ん坊の実結みゆいは、目を閉じて静かに眠っているようだ。

 しかし――その土砂や御初着おくるみに触れることができない。


実結みゆい! 実結みゆい!」

 手を伸ばして叫び続ける慎一を、管生くだしょうが押しのけた。

「落ち着け! だから任せろ!」

 管生くだしょうは鼻で土砂を掻き分け、御初着おくるみごと実結みゆいくわえ上げた。


 中身に歯を立てないよう気遣いながら、そっと井戸の横に寝かせる。

 慎一も動悸を鎮めながら、それを見守る。

「……かわいい子ではないか」

 管生くだしょうは目を細めて言った。

 まだ生後一週間では、のち実結みゆいを思わせるはずもないが、女の子らしく穏やかな顔立ちだった。


 でも――顔色がおかしい。

 慎一は、そういぶかった。赤ん坊らしい血色が、ほとんど感じられない。

 慎一は実結みゆいの頬に、そっと指をふれようとした。

 しかし、やはり触れない。指先には虚空の感触しかない。


 管生くだしょうも慎一の不安を気取り、おずおずと、赤ん坊の息を鼻先であらためた。

 鼻で撫でさするように、ゆっくりと顔中を探ってから、

「……のう、慎一」

 管生くだしょうは、沈鬱な声で言った。

「気をしっかり持てよ――と言いたいところだが、おぬしには無理であろうな」

「…………」

「しかし事実は事実。ここは、はっきりと言うぞ。――この子は、もう死んでおる」


「……は?」

 慎一は、白紙のような顔で管生くだしょうを見返した。

 やはりうろがきてしまったか――管生くだしょうは痛々しい顔で、黙ってうなずくしかなかった。


 慎一は実結みゆい御初着おくるみを、さわれない手で何度も抱き上げようとしていた。

 自分がそうしていることを、自覚しているわけではない。

 しかし、管生くだしょうが思うほど自失してもいない。

 感情が感情を感情として認めるのを拒否し、むしろ離人症にでも陥ったように、心とはまったく別の部分で、この事態を他人事のように考察していた。


 実結みゆいの祖父母は、なぜこんなむごいことを――実結みゆいの血液型を知ったからだろうか。

 しかし、新生児や乳幼児の血液型検査が不正確であることは、周知の事実だ。四歳以上になってから再検査すると、半数が誕生時とは型がくつがえると聞いている。そんな五分五分の可能性だけで、産まれたばかりの実の孫を闇に葬る覚悟ができるのか――。

 いや、できるかもしれない。実の息子と実の娘が、以前から契り合っていたことを知っているなら。

 今は没落していても、実結みゆいの祖父母には、かつて名誉ある旧家だった一族としてのプライドがある。現に戦前は栄華の頂点にいたのだし、戦後も人一倍プライドを重んじて醜聞スキャンダルを嫌う夫婦だったことは、慎一も幼い頃から瞥見べっけんしている。


 慎一の耳に、あの館で管生くだしょうが口にした言葉が蘇った。

「人など都合つごうしだいでいくらでも腐る」――。

 千年に渡って人の世を見てきた管生くだしょうの言葉は、慎一にとっても、厳然たる真実に思えた。


 慎一の脳裏で、堰き止められていた感情の渦が決壊した。

 死んだ実結みゆいの前に正座してうつむき、両のこぶしを両膝に置いて震えている慎一の、その震える拳の甲に、たらたらと涙がこぼれ落ちる。

 その涙が、しずくではなく水の糸であることに、管生くだしょうは一瞬驚いたが、すぐに内心で首肯しゅこうした。


 まあ、こいつなら、これくらいの涙は流すだろうよ。相手が実結みゆいであれ、見ず知らずの子供であれ、あまりに不憫ふびんな姿を見ると、いつもふたり分の涙を流してしまう男だからなあ――。


 一度流れ出してしまった涙は、理屈では止められない。

 慎一は正座したまま、咆えるように慟哭どうこくしていた。

 大の男にはありえないほどの、身も世もあらぬ号泣である。

 それがいつまでも続く。


「……泣けよ、慎一。涙が涸れるまで泣け」

 横に立つ管生くだしょうは、独りごちるように言った。

「俺は子供のように泣く男が嫌いではない。おのれの非力を思い知って、泣かずに立ち上がる男など信用できぬ。そんな男は、いずれおのれ他人ひとも裏切る」

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