その坂は、麓の慎一の家を過ぎるまで、ほぼ一本道である。

 車も年輩者の運転らしく、さほどスピードは出していない。

 しかし道が曲がりくねっているため、じきにオースチンの後尾は見えなくなった。


 落ち着け俺、落ち着け俺、落ち着け俺――慎一は走りながら、今の状況を模索していた。

「――あのトランクに実結みゆいがいるなら、ここはたぶん昭和三十二年の四月だ」

 肩の管生くだしょうに聞かせるというより、自分の思考を整理するために口にする。

 管生くだしょう怪訝けげんそうに、

「それだと実結みゆいは、まだ赤子であろう」

「生後一週間、産院から家に移った日だ」

「なんと……二十年前の夜かよ」


 実結みゆいが自宅から何者かに連れ出され、深夜、それに気づいた両親が警察に通報し、一旦は、その頃毎年のように全国で発生していた営利目的の児童誘拐が疑われた。しかし翌朝、付近を捜索していた警官と消防団によって、実結みゆいは無事に保護された。犯人の気が変わったのか、単に持て余されたのか定かではないが、いなくなった時のままの姿で、桃林の奥に放置されていたのである。


 管生くだしょうは当惑し、

「しかし実の祖父母が、なぜこんな誘拐魔みたような真似をしているのだ? 兄妹の不倫の子と知って、どこぞに捨てようというのか?」

「わからない……俺にはわからないことばかりだ」


 慎一は、坂の途中で足を止めた。

 本来なら、そこは海が見えるはずの場所である。しかし今は地平線まで桃林が続き、それに紛れて道の先も見えない。彼方の桃林の狭間に、ちらりと車の尾灯が瞬いたが、すぐに曲がって消える。


 管生くだしょうが言った。

「しかし、どのみち実結みゆいは無事に見つかるのだろう。焦ることはない」

「いや――俺はもう昔の話は信じない。実結みゆいの記憶も、自分の記憶も信じない。今の実結みゆいをこの目で見て、それだけを信じる」

 慎一はそう言ってから、管生くだしょうに訊ねた。

管生くだしょう、お前、空を飛べないか?」

 管生くだしょうは突飛な質問に面食らったが、すぐにいつもの皮肉顔に戻り、

「俺がモモンガに見えるなら目医者に行け。しかし、空に伸びろといわれれば際限なく伸びる。おぬしだって何度も見ておろう」

 慎一は、そんな事にも思い至らなかった自分に呆れながら、

「俺をくわえて伸びてくれ」

「おうよ」

 管生くだしょうは、瞬時に白獅子の丈になって、

「くわえようにも、おぬしの襟首には毛皮の余りがない。俺の肩にしがみつけ。やめろと言うまで空に伸びようぞ」

「頼む」


 管生くだしょうは気を利かせて横には膨らまず、上にだけ胴を伸ばした。傍で見ている者がいたら、けものではなく、天を突く白い柱に見えただろう。その首にしがみついている慎一にとっては、星空に向かって真上に飛ぶのと同じことである。


 管生くだしょうが風を切りながら言った。

「しかし見事な景色よの。上がれば上がるほど、どこまでも桃の林ぞ。――おう、ふもとの俺のやしろは、ちゃんと残っておるな」

 確かに、元から桃農園にあたる範囲の光景は、当時と様子が変わっていない。


 慎一は自分の生家を見定め、そこから記憶をたどって、ある場所への方角と距離を推し量り、そちらの道筋を注視した。

 案の定、オースチンのヘッドライトらしい豆粒ほどの光が、南への道筋を進んでいる。その農道は、少し先から車の入れない細道となり、戦前まで使われていた番小屋の跡地に続くはずだった。

「止まれ、管生くだしょう

「おう」

 ヘッドライトが向かう先に、黒いみのような暗がりが見えた。番小屋だった廃屋と、その前の空き地である。

「あそこに降りたい。うまく曲がれるか?」

「おうよ。龍のように堂々とくねってみせるぞ」


 管生くだしょうは、ぬい、と頭の向きを変えた。

 龍というより長大な虹のように、白い円弧となって丘と麓を結びながら、

「もしや、あそこで赤子の実結みゆいが見つかったのか?」

「ああ」

「そんな場所まで、おぬし、よく知っていたなあ」

「一度、見に行った。何年も後だけどな。見つけた消防団の人に聞いたら、いなくなったときの御初着おくるみのまま、土だらけで見つかったらしい」

「つくづく忠実まめな男ぞ。おおかた実結みゆいに惚れてから、聖地巡りでもしたのであろう」

「……まあな」

「町でこっそり実結みゆいの後をつけたりもしたに相違ない」

「…………」

「まさか風呂や着替えは覗いておらんだろうな」

「いや、そこまでは……」

「夏の海水浴場あたりで、日がな一日、実結みゆいの水着姿を眺めていたことは?」

「…………」

「おぬし、よくぞこれまで、おまわりに捕まらなかったものよなあ」

 管生くだしょうはからかうように言いながら、着地に備えて前足を構えた。

「まあ、ちゃんと籍を入れたのだから、ここは目をつぶってやるとしよう」

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