第四章 桃林羨道《とうりんせんどう》

 この車は、どこから現れたのか――。

 慎一も管生くだしょうも、面食らうばかりだった。


 かつて門から館に続いていた敷石の道は、ほとんど館ごと管生くだしょうまれ、数メートル先で途切れている。残った道も桃林に侵食されている。車は、その桃林とは無縁に突然出現したとしか思えない。


 うずくまった慎一を轢く直前で、車は停止した。

 管生くだしょうが言った。

「ここで轢かれていたら、どうなったであろうな」

「試してみるか?」

「……やめておこう」


 車の左の前ドアが開き、人影が降りてきた。

 慎一たちには目もくれず、そのまま門扉に向かってゆく。

 人がいたから停まったのではなく、単に門を開くために停まったのは明らかだった。

 車も運転者も、単なる過去の残像――。

 人影が門を開き始めた。なるべく音を立てまいとするような、小刻みな動きだった。門柱を抱き込んだ桃の木や、周囲の桃林を気にしている様子はない。


 慎一は立ち上がり、車を見分した。

 黒塗りの外車である。

「オースチン――この家の車だ」

「しかし、俺でさえ懐かしいほどの古物ぞ」

「戦前から使っていた車だ。俺も何度か見たことがある。最後に見たのは幼稚園の頃だったかな」


 昭和三十年代前半、この町で自家用車を持っている家庭は、ほんのわずかだった。まして戦前なら、平坂家の他には、町長や代議士の家だけだったのではないか。この国で、いわゆるモータリゼーションが進んだのは確か東京オリンピック以降、慎一が中学に上がってからである。


 助手席に座っているラフな洋装の女性を見て、管生くだしょうが慎一に訊ねた。

「その時代なら、あれは実結みゆいの母ではないな?」

「ああ、祖母だ」

 当然、さきほど館の居間で見た老婆と同じ容貌ではない。まだ初老で、暗い車内灯の下では皺も目立たず、顔の輪郭も彼女の娘――実結の母親に似ている。

 それ以外、車内に人の姿はない。荷物らしい荷物もない。


 門を開き終えた人影が、こちらに戻ってきた。実結みゆいの祖父、やはり初老だった。

 管生くだしょうが面白そうに言った。

「あの年で夫婦で夜遊びとは、お盛んなことよ」

 慎一は顔をしかめていた。

 夜半近くに、思い立って町のバーにでも出かける――この館の暮らしなら、ないことではない。しかし、ここでこの光景を自分たちが見ている以上、なんらかの形で実結みゆいの記憶が関わっていなければおかしい。


 ――今、このあたりに実結みゆいがいるのか?

 慎一は周囲の桃林を、すばやく、しかし念入りに見渡した。


 オースチンはそのまま発進し、門から坂道に下りてゆく。


「さほど遠くには行かぬ。門を開いたままだ。……おや?」

 そちらを見ていた管生くだしょうが、いきなり慎一の耳を引っ張った。

「お、おい慎一! あれを!」


 桃林の坂を下るオースチンの後尾に、何か奇妙な光が見える。

 赤く点滅するふたつの尾灯の、ちょうど中央の少し上に、微かだが、青く揺れる炎のような光――。

「あれは陰火ぞ!」


 管生くだしょうの叫びをスタートピストルにして、慎一は短距離走者のようにダッシュした。

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