慎一は、黙って管生くだしょうを肩に戻した。

 無言のまま館に目をやる。

 門前から振り仰ぐ猛火の館は、十年前に入った実結みゆいの記憶そのものに見える。

 しかしその炎は、すでに猛火ではなく地獄の業火に変わっていると、慎一には思えた。


 確かに――綺麗事では済まないのだ。

 自分がどんなに実結みゆいに焦がれても、周りの世界は、そんなことを斟酌しんしゃくしてはくれない。自分の思いと実結みゆいの思いさえ、綺麗事では噛み合わない。そんな現実の象徴が、灼熱の雲のように火の粉を巻き上げながら、めらめらと夜空を焦がしている。


 慎一は言った。

「……呑んでくれ、管生くだしょう

 管生くだしょうは慎一の肩から、するりと伸び上がった。

「まあ、どのみちここの始末は、それしかなかろうな」


 今度の膨らみには、つかえる天井がない。

 文字どおり天井知らずに、管生くだしょうは膨らんだ。

 姿形すがたかたちも異形を超えて、濃霧のかたまりのような巨獣と化し、春のおぼろな星空に屹立する。

 それからおもむろに屈みこみ、小高い敷地ごと天辺から呑むように、炎も館も、何もかも一口にんでゆく。


 そして、わずかに数秒後――。

 管生くだしょうは、するりと慎一の肩に戻り、

「やはり実結みゆいらしい味はせぬな。鬼の味もない。館の他には、腐った大人の丸焼きだけぞ。ちょいと焼けすぎたが、なかなかオツな味であった」

 そう言って、餌を食べ終えた猫のように、小さな手先で自分の口元をくりくりと拭いながら、

「――どうする慎一。いったん病室に戻るか? あちらの様子も気にかかる」

 慎一は、管生くだしょうが土台ごと呑んだ屋敷の跡を眺めながら、

「いや、ここはまだ実結みゆいの隠れ場所――桃の繭の中だ」

 確信に満ちた慎一の声に、管生くだしょうは顔を上げ、

「おお、これは……なるほど……」


 たった今、自分で囓った広大な荒れ地が、見る見る内に、地面から生え伸びる桃の林に覆われてゆく。

 そこだけではない。

 周囲を見れば、丘全体が満開の桃林となってゆく。


 管生くだしょうは、背後の門を振り返った。

 鋳鉄の格子門は以前のままだが、左右の門柱はすでに桃の木に抱き込まれ、アユタヤの仏像のように、ほんの一部を幹のおもてに覗かせている。


 管生くだしょうは慎一の肩から飛び降り、門に駆け寄って、格子の間から坂を見下ろした。


 元から広大な桃農園だった坂道一帯は、すでに全視界を埋めつくす桃林の一部となり、どこまでが本来の桃園だったのか判別できない。

 先ほどは、遙かに臨めた海沿いの街並みも、その彼方の日本海も、見晴るかす限りが、桃色の雲のような桃花に覆いつくされている。

 そして空は、一片の雲もない春の星夜――。


「……さっきの部屋と違って、歩ける道はなんとか残っておるようだが」

 管生くだしょうは呆然と言った。

「こう広いと、さすがに俺も呑みきれるかどうか……」


 慎一が隣に立ち、同じ世界を見渡しながら言った。

「いや、まだだ。呑んでもらう前に、実結みゆいを探して今の様子を確かめる」

「しかし……そもそも、探す世界の果てが見えぬ。館やアパートとはわけが違うぞ」

「たいして違わない。この景色全部が実結みゆいの記憶の中なら、間取りがないだけで、館やアパートと同じに限りがある。そして実結みゆいが今いる場所は、昔、自分と縁のあった場所のはずだ」


「しかし実結みゆいは旅にも出ておるぞ。確か、ずっと斎女ときめと同じ学校であろう。ならば中学の修学旅行は京都、高校では東京のはず。昔、土産みやげの『おたべ』や『東京ひよこ』を斎女ときめにもらったから間違いない。山陰道や東海道まで桃並木が続いていたらどうする」

「たとえ世界全体にだって限りはある。地球の表面積は五億一千と十万平方キロメートル。それを俺に教えてくれたのは実結みゆいだよ。つい先月、公民館の図書室で読んだとか言ってた。ならば最悪でも有限――俺は必ず実結みゆいを見つける」


 話す間に、慎一の肩に戻っていた管生くだしょうは、ぽつりと言った。

「その目かよ」

 言葉の意味がつかめず、慎一が管生くだしょうを見ると、

「いや、今のおぬしの目は、なかなかのものぞ。昔、そんな目を見たことがある。あれは義経よしつねであったかな」

「は?」

「源義経を知らぬのか」

「いや、知ってるけど……」

「俺がまだ奥州にいた頃の話だ。京から逃れてきた義経たちを山道で見かけたのだよ。遠目では、あんな出っ歯でちんちくりんな男が噂の勇者もののふかよと呆れたものだが、そばを過ぎるとき、目を見てわかった。あれなら確かに静御前しずかごぜん郷御前さとごぜんも惚れる。目千両、そんな言葉があろう。海を渡って成吉思汗ジンギスカンになれるおとこまなこぞ」

「へえ……」

「おぬしも、その目で桃御前ももごぜん陥落おとしたのであろう」

 冗談で力づけてくれているのだな――慎一はそう思ったが、管生くだしょうは、あんがい真面目な顔をしていた。


「とりあえず、坂を下ろう」

 慎一は言った。

実結みゆいが通っていた幼稚園も学校も、下の町だ」

「おう。俺のやしろ――おぬしや斎女ときめの家もな。あそこにいないとも限らんぞ。庭で斎女ときめが小さな実結みゆいと遊んでやっていたのを、俺も覚えておる。おまけに今は夫の実家ぞ」

 慎一がうなずいて、門扉を押し開こうとしたとき――。


 背後から、いきなり光が射した。

 炎とはまったく違う、鋭い光である。


 あわてて振り向く慎一の肩で、管生くだしょうが光から顔をそむけた。

「おう……」

 妖物だけに夜目が利く代わり、突然の光物は苦手なのである。


 慎一も目がくらみ、掌で目を覆った。

 指の隙間から覗き見ると、左右に離れた二つの円光が、間近に迫っていた。

「……ヘッドライト?」

「なんと……車かよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る