第三章 霊道行《たまのみちゆき》

実結みゆい……」

 慎一はつぶやきながら、幼い実結みゆいを見つめ続けた。

 炎の中で、あの日の実結みゆいが揺らめいている。

 しかし十年前の記憶の中で、前庭に倒れていた実結みゆいではない。

 その両眼は黒い瞳を失い、血走った白目だけが真円に開いている。

 それは十年前、搬送された松澤病院の病室を燃やしかけた鬼の目だった。


実結みゆい!」

 慎一は後先を忘れて駆け寄った。

「無駄だよ慎一」

 管生くだしょうが哀しげに言った。

「おぬしは記憶ここに入れるだけ――そして俺は記憶ここめるだけ」

 それでも慎一は、実結みゆいを抱きしめずにはいられなかった。

 過去の影を傍観できるだけの男が、影を抱けるはずもない。

 慎一自身、そう悟った上での行動だったが、なぜか微かな感触がある――いや、あるような気がする。

「…………」


 慎一に気づかず、居間の残骸をめまわしていた鬼の目に、ふと、黒い瞳が戻った。

「…………」

 その瞳が、やがて慎一の悲痛な瞳に交わり、

「……慎一さ……ん?」

 子供の顔だが、子供の声ではなかった。

 二十歳を過ぎた実結みゆいの声である。


 慎一と管生くだしょうは、同時に驚愕した。

 しかし、次の瞬間――。

 実結みゆいは激しく顔をそむけると、慎一の腕を振りほどいて身を翻し、燃え盛る廊下の奥に駆け去った。

 飛び去った、と形容するのが正しいほど、瞬時に炎に紛れて消える。


実結みゆい!」

 反射的に慎一は追った。

 すでに廊下のどこにも実結みゆいの姿はない。

 それでも炎の中を、ただ走り続ける。

 幸い、今の周囲の炎は、派手に見えるだけで熱さを感じない。


「度胸は買うが、やはりおぬしは阿呆あほうよの」

 小さく戻った管生くだしょうが、走る慎一の肩に這い上がった。

「おぬしは、どこに向かって走っておるのだ?」

「…………」

「あの二階の部屋を探せ。そもそもあそこが火元ぞ。おそらく実結みゆいの子供部屋であろう」

 推測にすぎないが、一理も二理もある。

 慎一は走りながら階段を探した。


 肩の管生くだしょうは、慎一の頭にしがみついて揺れをこらえながら、

「しかし、俺もおぬしに負けぬほど阿呆あほうぞ。なぜこんな簡単な理屈に気づかなかった。ここは十年前と同じ館ではない。子供の実結みゆいではなく、今、病院で寝ている実結みゆいの記憶の館ぞ。ならば今の旦那の気配に気づいてもおかしくない。慎一、もしかしたら、おぬしはここに関われるのかもしれぬ」


 炎の奥の横手に階段らしい影を見つけ、慎一はさらに脚を速めた。

 管生くだしょうが続けて言った。

「そして十年前に俺が呑んだ館は、おそらく実結みゆいの偽りの記憶」

 慎一は階段を駆け上がりながら、

「つまり、捏造ねつぞう記憶?」

「おう、実結みゆい自身がおのれだましていたのよ」

 管生くだしょうは痛々しげに言った。

とおそこそこの子供が、あれほど非道ひどい目にうて正気でいられるものかよ。身も心も狂うほどの辛さを、あの頃世間を騒がせていた火付け盗賊の悪行に置き換えたのであろう」


 慎一は、なかば焼け落ちそうな階段の踊り場を跳ぶように曲がりながら、

「だとしたら……ここを封じれば、なんとかなる」

「おうよ。俺が丸々呑んでしまえば同じこと。病院の実結みゆいに残るのは、火事の後、病院で目覚めてからの記憶――それでいいな?」

「ああ、頼む」


 やがて二階の廊下に躍り出る。

「右だ、慎一。あの奥の部屋ぞ」

 炎の中で、管生くだしょうは冷静に言った。

「今このまま、すべてを呑んでもよいのだが、それではおぬしに未練が残ろう」

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