子供らしい手書き文字のプレートを貼った扉は、堅く閉ざされていた。

 ノブを回しても、中から鍵が掛かっている。

「開かぬか? やはり俺が食い破るか?」

 慎一は肩の管生くだしょうに答えず、二度三度と体当たりを繰り返した。

 肩が激しく揺れるので、管生くだしょうは慎一の背中に潜りこみ、シャツの襟から顔だけ出して、

「おお、開きそうではないか。やはりおぬしは、ここの物事ものごとに関われるのだよ」

 たぶん、と慎一は思った。

 俺がここにいることを、実結みゆいが認めてさえくれれば――。


 数度目の体当たりで、室内に転がりこむ。

 顔を上げ、慎一は絶句した。

 床に降りた管生くだしょうも、オコジョそのものの立ち姿で絶句している。

 子供部屋ではない。

 そもそも、この洋館の一室とは思えない。

 炎や煙もまったくない。


「……窓の下に神田川が流れていそうな部屋ではないか」

 管生くだしょうが、呆れたように言った。

 確かに、安手の木造モルタルアパートそのものである。

「三畳一間よりはマシなようだが……」

「……2Kある。この台所の奥が六畳、横に四畳半」

「なんと、おぬしの部屋かよ」


 彼らが立っている三和土たたきの前は、団地サイズの流し台を備えた、四畳ほどの板の間だった。

 しかし、その板の間には、二本の桃の木が奥を守るようにしっかりと根を張り、この季節らしく伸び伸びと茂らせた枝々に、鮮やかな細花を綿菓子のように咲かせている。


「日当たりは悪いが、台所いっぱいに桃の木を植えるとは、風流なことだな」

「……植えてない」

冗談ざれごとだ。いちいち真に受けるな。この部屋とて実結みゆいの記憶――昔と今のあわいを失った、夢の中のような部屋なのであろうよ」

 管生くだしょうは、ふんふんと辺りを嗅ぎ回し、

「しかし、なにかきな臭い匂いがする。こことて、ついさっきまでは、屋敷といっしょに燃え落ちるはずの部屋だったに相違ない。こう変えさせたのは、慎一、たぶんおぬしぞ」


「……実結みゆいを探そう」

 慎一は、三和土たたきから上がるのに、靴を脱ぎかけた。

「履いたままにしろ。いつ何が変わるかわからぬ」

 管生くだしょうは、そう助言した。超自然の世界では、遙かに経験豊かな先達なのである。


 桃の花弁が、水面みなも花筏はないかだのように散っている板の間を、慎一と管生くだしょうは、桃の木の間を抜けて奥に進んだ。


 慎一は六畳の居間のふすまを開けた。

「これは……」

 そこはすでに、桃の密林だった。

 自然の中ではありえないほど緊密に幹が重なり、慎一の腰から上あたりは、満開の枝々が桃色の海綿のようにみっしりと茂り、天井も壁も見透かせない。


 ただ、足元を見れば、花弁の堆積のあちこちに居間の畳が覗いている。

 見慣れたデコラの座卓も、朝食を摂ったのと同じあたりに、なんとか透き見できる。

 そして座卓の横に、膝を抱えてうずくまっているらしい少女の華奢きゃしゃな足先も――。

実結みゆい……」

 しかし、そこに近づくための間隙かんげきがない。

 慎一が幹と幹の間に膝を突き入れても、腰でつかえてしまう。


「これはまるで六畳の桃花のおり――いや、桃花のまゆか」

 管生くだしょうが、言い得て妙な例えを口にした。

「俺だけなら抜けられるが、実結みゆいには俺の姿や声がわかるまい。といって、このままここを実結みゆいごと喰ってしまえば、このアパートの記憶も怪しくなろうな」

「消えるってことか?」

「わからぬが、無傷では済まぬだろう。俺はばくではない。人の夢だけ選んでは喰えぬ。下手をすれば、病院で寝ている実結みゆいの心が欠けるもしれぬ。夢とうつつあわいが欠ければ、人は狂うぞ」

「…………」


 夢とうつつあわいが欠ける――想像と現実の境界が損なわれる。

 慎一は、何年か前に統合失調症を患った同僚の苦労を思い出した。入院と投薬で無事に復職したが、寛解しても完治は難しい病気らしく、今でも薬が手放せない。


「すまぬ、慎一。俺が食い意地を張り過ぎた」

 管生くだしょうは珍しく頭を下げた。

「始めに庭から上がらず、屋敷ごと呑んでしまえばよかったのだ」

 慎一はかぶりを振った。それを責めるなら、下の廊下で、つい子供の実結みゆいに触れてしまった自分も悪い。

 

「こうとなっては実結みゆいの心しだい。ならば今、俺にできる仕事はひとつ」

 管生くだしょうはむくむくと膨らんだ。

「すぐに道を開ける」

 姿形すがたかたちはオコジョのまま、白獅子ほどの体長で膨張を止める。それ以上大きくなると、狭い部屋ではかえって動きにくい。


「ついてこい、慎一。その先はおぬしの仕事ぞ。惚れさせたときのように、うま実結みゆい口説くどけ」

「…………」

「情けない顔で悩むな。そのぱっとしないつらと安月給で、あのひなにはまれな娘を口説き落としたのだろう。ならば、口だけは勝てる理屈ぞ」


 管生くだしょうは真顔で言ってから、鼻先の幹に、がぶりとかぶりついた。

 一見愛らしい姿でも妖物は妖物、かっ、と口を開けば、やはり貪欲な異形である。

 異形の牙でばりばりと、瞬く間に桃花の繭を食い荒らしてゆく。


 管生くだしょうは、途中で少し息を継ぎ、

「……実が成っていたら美味うまかろうに」

 あまり美味くはないらしかった。

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