玄関の扉は施錠されていなかった。

 扉の奥は、小さいながらもホールと呼べるほどの洋間である。

 そこまでなら、慎一も一度だけ入ったことがあった。


 小学六年の春だったか、公民館で催された映画鑑賞会の後、何かの事情で家族が迎えに来られなくなった幼い実結みゆいを、斎女ときめと一緒に家まで送ったのである。斎女ときめは当時高校三年、実家でそれなりの修行を積んではいたが、まだ公私ともに御上みかみ斎子ときこだった。

 親しい隣家の姉弟と両手をつなぎ、満開の桃花の坂をちょこちょこと上る小学一年の実結みゆいは、観たばかりの映画『フランダースの犬』がアメリカ映画らしくハッピーエンドを迎えたことに興奮し、いつもよりずいぶん賑やかに笑っていた。


 あの笑顔を、自分はいつ取り戻せるのか――。

 あと五年、いや十年か――。


 そんなことを考えながら、慎一はホールから横手の廊下に折れた。

 行く手の奥から、また銃声が響いた。

 黒光りする廊下を、慎一は疾走した。

「急いでも同じだと言うに」

 管生くだしょうはぼやきながらも、五寸ほどの白い小躯をバネのように弾ませながら慎一と併走した。


 最奥に半開きの扉があり、そこから三度目の銃声が聞こえた。

 中に誰がいようと、それは記憶の残像である。慎一たちを見たり撃ったりする恐れはない。

 心得ている慎一と管生くだしょうは、ためらわず扉の内に駆けこんだ。


「……なんだ、これは」

 管生くだしょう剥製はくせいのように固まり、そうつぶやいた。

 慎一は、管生くだしょうのようには急停止できない。転びかけながら、やはり固まる。


 強盗などいない。

 居間らしい部屋の中ほどで、硝煙が立ち昇る猟銃を構えているのは、慎一が知っている男らしい。


 猟銃の先を目で追うと、窓際の長椅子に、部屋着ローブ姿の老人と老婆が折り重なって倒れていた。いずれも胸から腹にかけて散弾を浴びており、部屋着ローブと血糊の区別がつかない。長椅子の左右が大きくはじけているのは、威嚇か脅迫で着弾した跡なのだろう。


 その長椅子の横には、ひと組の男女が立ったまま寄り添い、わなわなと震えている。


 猟銃の男が、そちらのふたりに銃口を向けなおして言った。

「……まさか爺婆じじばばまでグルだったとはなあ。思わずあっさりかせてしまったよ。先に生爪なまづめでもいでやればよかった」


 あの人がこんな下卑た言葉を口にするだろうか――慎一はとまどいながら、男の顔がはっきり見える位置に身を移した。

 やはり旧知――しかし明らかに狂った顔である。

 慎一の記憶では、いつも生真面目に整っていた頭髪や洋服も、今は異様に乱れている。

「なぜ、あの人が……」


 独りごちる慎一の肩に管生くだしょうが駆け上がり、胡散うさん臭そうに訊ねた。

何奴なにやつだ?」

「……実結みゆいの父親だ」

 慎一は膝が震えて、立っているのがやっとである。

「なんと、このあるじとな」

「いや……そうなんだけど、そうじゃなくて……」

「おい、気をしっかり持て」

「つまり……家付きの長女と結婚した……」

「なるほど、磯野家ならばマスオさんかよ」


 管生くだしょうは窓際の長椅子に目を移し、

「それでは、あそこで死んでいるのは?」

「……実結みゆいの祖父と祖母」

 声を震わせる慎一に、管生くだしょうは平然と、

「ならば、あの美女と二枚目は?」


 四十前後と思われるスーツ姿の男は、なにか書類のようなものを手にし、震えながらその文面を目で追っている。

 少し若い部屋着ローブ姿の女は、すがりつくように男に寄り添い、やはり震えながら同じ文面を覗いている。

 その女の顔も、慎一は明瞭に記憶していた。大人になったら実結みゆいもこんな綺麗な女性になるのかと、いつも眩しく思っていた瓜実顔――実結みゆいの母親である。

 しかし、それよりやや年長の、背広姿の男の顔は――。


 あの人か、と慎一は気づいた。

 小学校からの帰り道、途中の駅前あたりで、何度か見かけたことがある男だ。見かけるときは、いつも幼い実結みゆいを連れた母親が一緒だった。

実結みゆいの母さんと……実結みゆいの伯父さん?」

「つまり母親と母親の兄か」

「ああ。伯父さんのほうは、昔、勘当されて家を出たって聞いてたけど……」

「なるほど、どちらも実結みゆいに似ておる 俺はてっきり、あっちが両親ふたおやと思った」


 そんな兄妹に、妹の夫――実結みゆいの父は揺れる銃口を向けながら、じりじりと迫って行った。


「こんな畜生どもにだまされて、こんな汚い家を後生大事に守ってきたのか、俺という男は……」

 それから長々と哄笑する声も、明らかに狂人の笑いだった。

「ろくに蓄えもない奴らをせっせと食わせて、でかいだけのボロ屋敷をせっせとつくろって、畜生どもの子まで育ててやってよ……」

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