一瞬の微睡まどろみみから醒めると、慎一は、すでに屋敷の門内に立っていた。

 星明かりも空に溶ける朧月夜――。

 春の夜風が、桃林と町と潮の匂いを含んで、さわさわと背中をなでる。


「おい慎一。十年前とは、いささか勝手が違うではないか」

 額の管生くだしょうが、実結みゆいの生家を見上げて言った。

「あのときは、やかた全体が、もう手もつけられんほど燃えておった。その玄関先の庭に、実結みゆいひとりが倒れておった。だから俺が、燃え盛る館ごと、実結みゆいの心をまるまるんだ――そうであったな?」


 慎一も館を見上げたままうなずいた。

 眼前の洋館は、確かに実結みゆいの生家・平坂家――大正の面影を残す擬洋風建築の広壮な旧家である。

 戦後の農地解放で大半の土地を失い、内情は没落しているが、建物自体の威容は失われていない。

 十年前、実結みゆいの記憶に入ったときには、その屋敷全体がすでに巨大な篝火かがりびと化しており、慎一自身も忘れてしまいたいほど悲愴な有り様だった――はずなのである。


 管生くだしょうは、気が抜けたように言った。

「確かに燃え始めてはおるが、二階の窓からちらちらと火の手が上がったばかりぞ」

 慎一は、とまどいながらうなずいた。

 管生くだしょうの首がひたいから生えている以上、うなずいても意味がないのだが、つい、いつもと同じ動きになる。

「いちいち揺らすな。これでは車酔いになる」

 管生くだしょうは肉色の首を引っこめ、本来の白い姿を髪の上に現すと、敏捷びんしょうに地面に駆け下りた。

「また戻るときにく」

 慎一は上の空で、またうなずいた。


 ふと思い当たり、慎一は背後の格子こうし門を振り返った。

 あのとき、門から桃林に続く坂道には、駆け下ってゆく数人の人影が見えたはずである。

 慎一の足元で管生くだしょうが言った。

「火縄銃をかかえた賊らもおらん」

 正確には猟銃を所持した強盗集団が去ってゆく姿――それが今はない。


 当時、そんな殺人放火犯が裏日本の一部を騒がせており、平坂家の惨劇も、同じグループの犯行と思われている。ほとんどの焼死体に散弾の銃創があったからである。しかし、その後、強盗集団は日本海を渡って海外に逃れ、いまだに行方が知れない。


実結みゆい……」

 慎一は身を翻し、庭を縫って続く敷石の道を、玄関に向かって駆けた。

 実結みゆいや家族を救おうと思ったわけではない。

 そもそも今いる世界は、病床に横たわる実結みゆいの記憶にすぎない。慎一は、そこに入っただけである。管生くだしょうならば、その記憶自体を内からむことができるのだが――事件当日の夜の記憶と、今の実結みゆいの記憶は、あまりに様子が違う。


 案の定、玄関前の庭先に、実結みゆいの姿はなかった。

 立ちすくむ慎一に、足元から管生くだしょうが言った。

「思えば、そう臆することもなかろう。しょせん人の覚え事ぞ。人の心の中など、気分しだいでいくらでも変わる。あのときよりも前のことを考えているだけではないか?」

「……そうだな」


 同じ相手の、同じ時の記憶に二度入った経験がないので、構えすぎたかもしれない――。

 慎一がそう思った刹那せつな、屋敷の内から、腹に応えるような轟音が響いた。

 火災がぜる音ではない。散弾銃の発砲音である。

 硬直する慎一に、

「これは面白い。火付け盗賊のやからが、まだ中におるらしいぞ」

 管生くだしょうは、鼻で笑いながら言った。


「慎一、おぬしはここで待て。どうせ何をどうすることもできぬ。どのみち実結みゆいの家族は皆殺しになる。家も灰になる。しかし実結みゆいは確かに逃れ出る。それさえ見届ければ、おぬしには充分であろう」

「……お前は?」

「知れたことよ」

 管生くだしょうは、黒目がちの瞳に禍々まがまがしい喜色を浮かべ、

「屋敷ごと呑む前に、賊の奴らを頭から喰ろうてやるのさ。悪党という奴は、なまでも影でも、なかなか旨いものだからな」

「……俺も行く」

「おぬしも度量が足りぬな、慎一」

 管生くだしょうあざけるように、

「心の狭い婿むこほど、嫁が忘れたがっている昔の事を、根掘り葉掘り知りたがる」


 慎一の胸が、激しく疼いた。

 初めて実結みゆいと結ばれた夜、慟哭どうこくしそうになったほどの心の痛みと、同じ疼きである。

 十年前、この前庭に倒れていた実結みゆいは、引き裂かれた洋服の一端を、わずかにまとっているだけだった。


「……狂い犬に噛まれた傷跡など、いつまでめていてもせんなかろうに」

 あざけりではなく、いたむような声で管生くだしょうは言った。

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