第二章 管生《くだしょう》

他人ひとの記憶には、あんたじゃなきゃ入れん。霊道行たまのみちゆきは、あんたの仕事だ」


 斎女ときめの言に、慎一はうなずき、椅子から立ち上がった。

「……封じるのは、あの日と同じ記憶でいいんだよね」

「たぶん。実結みゆいちゃんの家から、火が出るのが見えた」

 斎女ときめ自身も、かなりのところまで他人ひとの記憶が読める。しかし外から瞥見できるだけで、その記憶の内部に侵入できるわけではない。慎一にはそれができる。御上みかみの家系でも極めて稀にしか、それも男系にしか発現しない能力であり、その侵入行為を、御上みかみ家では代々『霊道行たまのみちゆき』と称している。

「なら、よかった」

 慎一は安堵していた。

 あのときの記憶を葬っても、今の実結みゆいに変わりはない。以降の記憶は残り、これからも同じ生活を続けられるだろう。


 十年前の夜、まだ若かった松澤医師は、実結みゆいから立ち昇った陰火に触れる度胸がなく、その手の超自然現象に明るいはずの斎女ときめに連絡した。隣家の罹災を心配していた斎女ときめはすぐに駆けつけ、当時まだ高校に上がったばかりの慎一も同行し、なんとか実結みゆいの記憶を封じたのだが――封じきる前に陰火が陽火に変わり、病室の一部を焼いたのである。


 慎一は斎女ときめに言った。

「じゃあ、管生くだしょう、ちょっと貸して」

「はいよ」

 斎女ときめふところから、紫色の袋物をそそくさと取り出した。

 懐剣の拵袋こしらえぶくろに似ているが、やや短くて太い。

 紫の房紐ふさひもをほどくと、中には二十センチほどの竹筒が収まっていた。

 斎女ときめは竹筒の先端を、証書筒のふたのように一寸ほど引き外し、開いた穴に声をかけた。

「起きな。仕事だよ」


 すると竹筒の口から、白い小動物が顔を出した。

 冬毛のオコジョに似た愛嬌のある顔で、力いっぱいあくびしたのち、

「……春先は人使いが荒くてかなわぬな」

 明瞭な、しかしやや古風な日本語で、そう愚痴ってみせる。

 小動物愛好家なら歓声を上げそうな見かけによらず、声は松澤医師よりも太い。


 古来、民間伝承において『管狐くだぎつね』あるいは『飯綱いいづな』と呼ばれている霊獣――式神と言ったほうが適切かもしれない――を、東北の一部では『くだしょう』と言い習わしている。口語でしか伝えられない陰の部分であるため、その語句の下半分『しょう』が何を意味しているのか、文献には残っていない。狐やいたちに似ているという記録や、西日本に多い『狗神いぬがみ』の同類とする研究書はあるが、あくまで民俗学的な推測であって、実物を視認できる者たちは、なにひとつ文字に残していないのである。御上の家に伝わる『管生くだしょう』も、その漢字を当てるという解釈のみが伝わっているにすぎない。


 ともあれ御本尊の管生くだしょうは、ちょこちょこと斎女ときめの肩に這い上がり、くりくりとした黒い目で周囲を見渡した。

「そこの藪医者、久しぶりだな。百年ぶりか? ずいぶん老けて、丸々と肥えたものだ」

 松澤医師は、うんざりした声で応じた。

「……十年だ。それに五キロしか増えちゃいない」

 陰火といい管生くだしょうといい、御上みかみ家と交友を続けるには――主に斎女ときめと顔を合わせ続けるには、理系人間にとって、なにかとハードルが高い。


 それから管生くだしょうは、病床に横たわる実結みゆいと、宙に漂う陰火を事もなげに一瞥し、

「また、その妹分いもうとぶんがらみの荒事あらごとかよ、斎女ときめ

「うん、お願いね」

「ということは、また、そこの朴念仁ぼくねんじんかねばならぬのか」

 管生くだしょうは慎一に顔を向け、苦々しげに言った。

「正直、男臭くてかなわぬのだが」


 白いオコジョそっくりの顔で『苦々しい顔』ができるところに、生身の小動物とは桁違いの禍々まがまがしさと、それを突き抜けた一種の愛嬌が感じられる。

 そんな違和感が先に立ち、管生くだしょうとは長いつきあいの慎一も、いまだに本性をつかみきれない。


 慎一は、あえて深々と頭を下げた。

実結みゆいのためだ。よろしく頼む」

「おうよ。確かにその娘には、昔から、なにかこう、放っておかれぬ匂いがするからな」

 管生くだしょう鷹揚おうようにうなずいて、

「しかし、どうせなら竹筒ぬきで、斎女ときめの胸に憑いていたいものだよ。年増でも子を産んだことがないから、乳に若い弾みがある」

 斎女ときめは間髪をいれず、管生くだしょうの頭にからの竹筒を振り下ろした。

 竹筒だけに、日本庭園の鹿威ししおどしのような音が、病室中に響く。


 管生くだしょうは、斎女ときめの肩から転げ落ちるかと思いきや、

「我ながらすずやかなで鳴るものよ」

 微動だにせず、しみじみと目をつむり、

「これぞ千年生きた俺の魂の響き、諸行無常の響きぞ」


「……お前は祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘かいね」

 斎女ときめは呆れた顔で管生くだしょうのうなじをつまみ、ひょい、と慎一の肩に移した。

「とっとと行っといで。ちゃんと仕事済ませて戻ったら、褒美ほうびに、あと百七回鳴らしてやるよ」


冗談ざれごとのわかる女子おなごは大好きだ」

 管生くだしょうは口の端を歪めて笑い、ちょろちょろと慎一の頭に登った。

 地方公務員らしい七三分けの短髪に、頭頂部から、もぞもぞと潜りこむ。

 そのまま頭蓋骨を無視して真下に潜ってゆく管生くだしょうの白い尾を、松澤医師は顔をしかめて見送った。


 やがて慎一の額から、肉色のオコジョの首が生えた。

「昔ほど臭くはないな、慎一」

 管生くだしょうの顔で、肉のこぶが言った。

「さては毎日、風呂で若妻と洗い合っておるな」

 慎一は、つい、うなずいてしまった。

「そこは笑ってごまかすところだよ阿呆あほう


 言いつのる管生くだしょうを無視して、慎一は、斎女ときめと松澤医師に軽く頭を下げた。

 スリッパを脱ぎ、ベッドの実結みゆいに寄り添う。

 それから、宙に漂う陰火ごと、実結みゆいの胸を我が胸で覆う。

 初めて結ばれた夜のように優しく体を重ねると、ふ、と実結みゆいが吐息し、陰火はふたりの胸に溶けて消えた。

 慎一は目を閉じて、なかば体を重ねたたまま、実結みゆいの横に寄り添った。


「なんだ。子供でもあるまいに、もう閨事ねやごとはしまいかよ」

 ぼやいている管生くだしょうとともに、慎一の姿が薄れてゆく。

 これだから朴念仁は芸がない――そんな管生くだしょうの声だけが、斎女ときめと松澤医師の耳に残った。

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