ほどなく病室のドアが、外から軽くノックされた。

 ふたりが、どうぞ、と応じる前に、

「お待たせ、慎ちゃん」

 慎一の姉・斎女ときめが、大きな風呂敷包みを抱えて入ってきた。

「とりあえず入院に要りそうなもの、アパートの箪笥から見つくろってきたよ」

 夕刻、慎一が実家の姉に電話で頼んでおいたのである。

「わざわざ、ごめん」

「なんも。あんたの下着とかいじるのはごめんだけど、実結みゆいちゃんのためならなんだってするよ」


 斎女ときめは、世間にありがちな煩わしい小姑こじゅうとめとは別状、昔から実弟の慎一よりも、むしろ実結みゆいを実の妹のように可愛がっている。アパートの合い鍵も、慎一ではなく実結みゆい自身が預けたものである。


ときちゃん、仕事中だったのかい? ご苦労様」

 松澤医師が、斎女ときめの少々風変わりな和装姿を見て言った。

 仕立ては神社の巫女衣裳に似ているが、あれほど賑々にぎにぎしくはなく、むしろ東北のイタコに近い。手荷物がバッグではなく風呂敷なのも、その衣裳に合わせたのだろう。

「なんもなんも。春先はおかしくなる人が増えて商売大繁盛だけど、正直、セラピーみたいな仕事ばっかりだから、いつだって抜けられる」

 斎女ときめは、風呂敷包みをとりあえず床頭台に置きながら、

まっちゃんこそ、他の手術とかいいの? 死傷者が四人も出たって、ニュースで聞いたよ」

「俺の仕事は済んだ。網元のせがれの骨を三本ばかり継いできた。残り一本はひどい粉砕骨折なんで、親父じゃないと手に負えない。居眠り運転のトラック野郎は、白い巨塔に丸投げだ」

「いちばん大事な仕事が残ってるでしょうに」

 斎女ときめはたしなめるように言った。

「あたしに女の子が授からなかったら、この子の娘が、次の『御子神みこがみ斎女ときめ』なんだからね」


          ◎


 ちなみに『御子神みこがみ斎女ときめ』という神がかった姓名は、あくまで代々引き継いできた一種の名跡であり、彼女の戸籍上の姓は慎一と同じ御上みかみ、本名も斎子ときこと、平凡そのものである。


 慎一と斎女ときめの生家・御上家は、丘の麓の狭隘きょうあいな田舎家ながら、登記上は正式な単立宗教法人――神社本庁に属さず、むしろ密教と神道が混淆こんこうしていた中世の色を残す、いわば『拝み屋』だった。四代前の高祖母までは、東北でイタコの類に紛れていたらしい。しかし、その地では異端に属する西日本的な流儀が仲間からうとまれ、曾祖母の代に意を決して南下、流浪の末にこの山陰の町に流れ着き、以来、細々と独自の女性神事を継承している。


 といって現在、小さなほこらを有する田舎家で、稼業に励んでいるのは斎女ときめひとりである。両親はここ二年ほどの内に相次いで他界し、弟の慎一夫婦は、公民館近くのアパートに新居を構えてしまった。それでも代々の氏子が根強く残っており、中にはけっこうな地方名士も含まれるから、そちらの有力者を名目上の役員に立て、なんとか法人格を保っていた。


          ◎


 松澤医師が広げてくれたパイプ椅子に、斎女ときめは礼も言わず、当然のような顔で腰を落ち着けた。

 三十六歳と三十二歳、ふたりともいまだに独身だが、なぜか子供の頃から、そんな嬶天下かかあでんかのような関係が続いている。


 斎女ときめ実結みゆいの寝顔を覗きこみ、吐息して言った。

「なんでこの子ばかり……こんな辛い目に、何度も合わんといけんのかねえ」

 慎一も松澤医師も、うなだれるしかない。

 実結みゆいの胸に、斎女ときめがそっと手を触れた。

「松ちゃん、もっとあったかくしてやれんの?」

 松澤医師はかぶりを振って、

「あの晩とまったく同じだ。体の芯から凍えちまうんだよ」

 斎女ときめは黙ってうなずいた。

 そのまま瞑目し、何か祓詞はらえことばのようなつぶやきを口の中で唱えはじめる。

 そうして祈ること、しばし――。


「――いけん」

 斎女ときめは眉根を歪め、実結みゆいの胸から掌を離した。

「この子、思い出しとる」

 慎一はぴくりと体を奮わせた。

 松澤医師も眉をひそめる。

 斎女ときめは目を開き、まなじりを決して言った。

「あの日のことを思い出しちまったら……この子、また鬼になるよ」


 慎一と松澤医師が固唾かたずを飲んでいると、実結みゆいの胸の上に、ぽ、と小さな青い炎が灯った。

 松澤医師は、思わず一歩、後ずさった。

 蝋燭の火ほどの青い炎は、静かに揺らめきながら数センチほど宙に浮き、やがて人魂ほどに膨らんで、ゆらゆらとそこにとどまった。

 松澤医師は声を震わせ、

「えーと、これは、その……陰火?」

「うん。よく覚えとったね」

「この子が心に収めきれなくなった負の感情――魂魄こんぱくの『はく』に相当する心のこごり――あの晩、そう聞いたよな」


 松澤医師は、怯えながらも理系の好奇心が勝ったらしく、その青い炎に恐る恐る手をかざした。

「氷みたいに冷たい。だから深部体温が……」

 つぶやきながら、病室の壁に広がる補修跡を見渡し、

「でも、また陽火――本物の炎に変わるのか?」

 その補修は、十年前、焼け焦げた白壁を隠すために施されたのである。


「慎一。腹、えな」

 斎女ときめは言った。

他人ひとの記憶には、あんたじゃなきゃ入れん。霊道行たまのみちゆきは、あんたの仕事だ」

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