いくつかの計器類や、輸液用の点滴に繋がっている以外は、ただ安らかに眠っているとしか思えない実結みゆいの白い顔を、慎一は枕元のパイプ椅子から、すべもなく見守っていた。


 松澤病院は、昭和戦前から続く町一番の私立総合病院だが、当時は最先端だった鉄筋コンクリートの三階建ても、今となってはさすがに老朽化が目立つ。病室内も本来の白壁は窓側の一部だけで、あとは補修用の壁紙に覆われている。


「あの状況で、わずかな打撲と擦過傷だけで済んだのはまさに奇跡なんだが――未だに意識が戻らないのは、もっとおかしい」

 松澤医師は慎一の横に立ったまま、沈痛な面持ちで言った。

「器質的な異常は、まったく見つからない。呼吸も心拍もしっかりしてる。しかし脳波だけは、ほとんど仮死状態だ。去年の健診では平熱36度5分、しかし現在の深部体温は35度2分。――電気毛布に電気敷布、お前にゃ言いにくいが直腸からの温湯注入、どんな手を使っても深部体温だけはすぐに下がっちまう。今も徐々に下がってる」

 すでに深夜、三階の個室に残っている病院関係者は、松澤医師だけである。

「あの夜――十年前の昏睡にそっくりだ。俺は心配だよ。主治医がそんな弱音を吐いちゃいかんがな」

「……不運続きに見えて、実結みゆいは運が強いですから」

 そう応じながら、慎一は松澤医師同様に、いや新婚早々の夫として誰以上に不安だった。


 確かに実結みゆいには、著しい不運と奇跡的な幸運が同居している。

 これまでの二十年少々の人生で、今回の事故以外にも、死んでおかしくない事態に二度も巻きこまれ、そのたびに生還している。

 出生後わずか一週間目の夜、自宅から何者かに連れ去られたときも、無事に両親の元に戻った。

 十年前、自宅が連続強盗放火犯に襲われて他の家族全員が焼死したときも、小学生だった実結みゆいだけはほとんど火傷を負わず、気道や肺を傷めることもなく生き残った。

 そして今日、後続していた普通車のドライバーは内臓破裂で即死、前の四駆のドライバーは車ごと横転して両手両足を骨折、張本人のトラック運転手は頸椎けいつい損傷で大学病院の集中治療室に移送――そんな大事故に巻きこまれながら、実結みゆいの体には、レントゲン検査でもまったく損傷が見つからない。

 著しい不運と奇跡的な幸運の二人三脚――。

 しかし精神的な部分では、十年前の悲劇の痕跡が、実結みゆいには歴然と残っているのである。


 あの火事の夜から、実結みゆいは子供らしい感情の起伏や喜怒哀楽を、ほとんど外に表さなくなった。


 それ以前の実結みゆいを、慎一が頻繁に見ていたわけではない。

 同じ町で、同じ坂道の上と下にある二つの古い家――いわば隣家同士で育ったふたりだが、歳が六つも離れていたし、広大な桃林の間を曲がりくねる坂道は、子供の脚だと抜けるのに十分以上かかった。実結みゆいの家は眼下に町を一望する立派な邸宅、慎一の家はちっぽけな田舎家、そんな違いもあった。それでも町内の子供会活動が活発に行われていた時代、節目節目の集まりで見かける実結みゆいの、わらべ人形のように可憐な笑顔を、慎一も好ましく記憶している。


 そんな少女の顔が、骨董屋の奥に佇むビスク・ドールのように、冷たく固まってしまった。


 一夜にして家族と家を失った子供にとって、それは当然の変化だったのかもしれない。

 しかし地元の児童養護施設、いわゆる孤児院で暮らすようになってからも、実結みゆいの表情は戻らなかった。

 根は利発な娘だから、田舎の人づきあいの中でつつがなく暮らすため、潤滑油としての微笑くらいは浮かべることがある。それでも周囲の人々は、良かれ悪しかれ人形のような子供――可憐ではあるが、あまりにも無口で親しみがたい娘――そんな割れ物扱いに終始していた。

 唯一の例外は、不憫ふびん実結みゆいを気にかけて、親戚同様に季節の便たよりやおとないを続ける、かつての隣家の家族であった。


 そうして、やがて実結みゆいが思春期を迎え、縁あって慎一と心を重ねるようになってからは、薄紙を剥ぐように感情や表情が戻り、二十歳を過ぎて結ばれた今では、今日の昼間のように、はっきりと人前で照れ笑いを浮かべるほど明るくなってくれたのだが――。


 慎一は、ベッドに横たわる実結みゆいの白磁のような寝顔を見つめながら、愛しければ愛しいほど不安だった。

 もし今の昏睡が、あの日のように精神的な破綻はたんによるものならば――あの日と同じことが、また起きてしまうのだろうか。


 実結みゆいには、火災以前の過去の記憶がない。

 火災自体の記憶を含め、いっさいが失われたままである。

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