桃林羨道
バニラダヌキ
第一章 桃花縁《とうかえん》
1
あの頃何かが一度こわれたっけな
蛇口だったか 世界だったか わたしだったか
―
◎
あれからもう何年が過ぎたか――。
春の午後、妻の
あの頃何かが一度こわれたっけな
蛇口だったか 世界だったか わたしだったか
戦前、あの二二六事件の少し前に生まれ、平成二十九年の冬を待たずに亡くなった老詩人・
収められていた詩集は『小航海26』。
小長谷氏がその詩集で、詩壇の芥川賞と呼ばれるH氏賞を受賞したのが昭和五十二年、ちょうど慎一と
当時、慎一が勤めていた海辺の公民館では、土曜の午後に町の本好きたちが集まり、ささやかな朗読会を催していた。そこで慎一自身が朗読し、
木造校舎の教室を思わせる公民館の一室、あの午後も、西の窓には日本海に繋がる
◎
「『部屋のすみ ドアの前の流し台から
聞こえてくる音 おやすみなさいおやすみなさいおやすみなさい』――」
慎一が朗読を終え、
素人っぽい朗読にはお世辞の拍手、情感あふれる伴奏には真摯な拍手。
それでも点字図書や大活字本に親しい常連たちからは、慎一の朗読そのものに対する純粋な拍手も、少しは混じっているはずだった。
「小長谷さんの作品は、現代人の不安や孤独を
おしゃべり好きの松澤医師が、
「ピアノのほうは、最初はちょっとメロディーが合わないような気もしたんだけど、最後まで聴いていたら、子守歌みたいで救われた気分になった。たぶん
松澤医師は慎一よりひと回り年長だが、昔から何かと縁があり、お互い歳の離れた兄弟のように遠慮がない。他の皆もそれを知っているから、内輪の冗談として屈託なく笑っていた。人前ではあまり笑わない内気な
その後、松澤医師自身が漱石の『夢十夜』を何夜か抜粋して朗読し、
解散後、
そして、そろそろ自分も帰ろうと慎一が勤務日誌を閉じたとき、机の黒電話が鳴ったのである。
交差点で信号待ちをしていた車列に、大型トラックがノーブレーキで追突したという。
すぐに呼びつけたハイヤーは、病院に直行するため事故現場を迂回したので、慎一は現場の惨状を見ずに済んだ。
アルミ缶のようにひしゃげた車体を先に見ていたら、慎一は正気を失ったかもしれない。
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